日本翡翠情報センター(糸魚川翡翠・ヒスイ海岸・翡翠勾玉・翡翠大珠・ひすい)

日本翡翠と勾玉、天然石の専門店《ザ・ストーンズ・バザール》が運営する日本翡翠専門のホームページです。『宮沢賢治と天然石』『癒しの宝石たち』『宝石の力』(ともに青弓社刊)の著者・北出幸男が編集・制作しています。(糸魚川翡翠・ヒスイ海岸・ヒスイ採集・翡翠勾玉)。

ANCIENT HISTORY

杯をかかげて現代日本に満ちる翡翠勾玉をことほぐ

   女の呪力が回復する現代に勾玉もまた復活した

マウシッシ大勾玉 素材の種類の豊富さということもあって、現代勾玉は色とりどり。形も前衛的な工夫をこらせるようになっています。写真はマウシッシ(コスモクロア)製品。約66x55x24ミリと大型です

ピーターサイト吉祥勾玉 ピーターサイト30ミリ吉祥勾玉。ピーターサイトでは30ミリの大きさの製品を作るのは難しいことです。くっきりとした稲妻模様が映えます

カムイコタン吉祥勾玉 カムイコタンは北海道旭川地方で採れる日本のパワーストーン。アイヌ語で神が棲む村の意味。触れているとなつかしい気持ちでいっぱいになります

ローズクォーツ本勾玉 ローズクォーツで勾玉を作ると、この世のすべてのものへの愛情が石からこぼれでてくるような雰囲気になります。写真は38ミリ本勾玉

イエロージェード本勾玉 黄色い天然石は金運を招く効力が大きいとか。イエロージェード38ミリ本勾玉は金運を引き寄せるスターチャイルドのようです

ニュージェード本勾玉 ニュージェード38ミリ本勾玉。現代という新たに開かれた意識の沃野を旅していくのに、勾玉は頼りがいのある守護石になります

紅白陰陽勾玉 紅白の勾玉は陰陽を表わし、両者が巴になって回転すると太極印になります。あらゆるものがここから誕生してくるという吉祥の印(しるし)です

[1]人類は呪術を学んで賢くなった

古墳時代のご先祖にとって、勾玉は神秘的なパワーの宿りであり、それによって不運・災難から自分や家族を護ってもらうための物実(ものざね・お守り)でした。彼らは勾玉を介して祖霊たちとつながり、現実世界と精神宇宙が互いに浸透しあっていた日々をパワーにくるまれて過ごしました。勾玉はまた、死者の霊が子孫を守るよう期待して権力者たちの墳墓に副葬されました。こうした思いは私たちが神社のお守りをバッグに忍ばせたり、御札を神棚に飾るのと似ているけれど、彼らにとってパワーの世界はリアルな現実でした。

勾玉にほんとうにパワー効果があるか否か、あるいはそれはどういう経路で効力を発揮するかは、「呪術」について基本的な知識がないと理解できません。神秘的ことがらへの知識がないまま勾玉やお守りの効力を論じても、信じる信じないの話でおわってしまいます。

勾玉にまつわる呪力を追っていくと、勾玉消滅のもうひとつの理由である「女たちの呪術の形骸化」に出会うことにもなります。中国文化と仏教の受容、律令制の確立といった従来の意見より、こちらのほうが、勾玉文化衰退についていっそう大きな背景だったようにもみえます。そんなふうなので、ひとまずは呪術について追っていくことにします。呪術は人類最初の思想であり、人類が知性化されたときに始まりました。ここでの呪術は私たちが口にする「呪い」とはかなり意味が異なります。

[2]呪術の発生と発展8つのステップ

呪術の発生と発展、衰退していく経過は、古代日本の勾玉文化を古代的な感性のもとに理解するために、知っておかなくてはならない知識と考えています。

(1)言語の創造

人類は知性化されて言葉を使用できるようになり、言葉によって周囲のものごとや自分の感想・認識・意見を他者に伝えられるようになりました。言葉を覚えたことで抽象的思考を他者と共有できるようになり、知性化にはずみがつきました。

自と他を区分けして自分の身体の存在に目覚めたことで、前後、左右、上下、遠近と認知できる領域が出現し、山・林・河・海など名前を付けていくことで生活空間が実体化していきました。名前を付けるまでは、ただそこにそれがあり、それが何であるのかを理解できはしませんでした。名付けることで名付けたものに意味が与えられ、世界は存在の豊かさを増していきました。そうやって人は自分たちの認識・思考によって実体化した世界に縛られるようになりました。

あまりにもありありとそれぞれに意味のあるもの、価値あるものがそこにあるので、それらは自分たちの想念によってそのように感じられているのではなく、原初のときからそのように実在していたと信じこんでしまったのです。(知性が認知しうるものにあるがままのものなど存在しない、というのがインド&仏教哲学風思考の立場です)

(2)生と死の発見

やがて人類は仲間や狩りの獲物の「生と死」を発見し、カリブーやトナカイ、サケの群れのように特定の季節に獲物が群れなして出現するのに気付くようになりました。季節ごとに出現する獲物の大群に衣食住を依存した人類にとって、獲物は人間が赤子を生むように、原初の地母神(洞窟の女神)が生んで、人間に与えてくれるもののように感じられました。

この時期、骨に魂が宿るという信仰が生まれて、原始人類はホラアナグマの骨を、その母親である洞窟の女神に返したりしました。貝塚はゴミ捨て場ではなく、貝殻や獲物の骨を大地に返す場所だったようです。

骨を神聖視する信仰は古代中国では魂には魂魄の2種類あるという考え方に発展し、仏教ではブッダの遺骨を仏舎利と仰ぎ、仏塔を建てて弔う信仰へと受け継がれました。仏舎利を崇拝する人たちによって大乗仏教が編まれたのは、仏像が誕生するよりだいぶまえの出来事です。

(3)神々の出現

日常的な世界のすべてもまた、なにか大きな力によって生みだされている、というふうに感じた人類は、日常的で目で見て触れられる世界を包みこんで、さらに大きな向こう側を夢想するようになりました。こちら側がどこから来るのかを思うと、目には見えず、触れられはしなくても、なにかもっと大きな実体があると感じられたのです。

こちら側は生きているものの世界であり向こう側は死者の世界、こちら側が人間の世界であり向こう側は精霊の世界になりました。やがて「神」という概念が発見・発明されて、向こう側は神々の世界として理解されるようになりました。ここでの神々はキリスト教的な創造主・造物主とは異なっていて、シャーマニズムの精霊たちを純化させたような神々です。

日本では明治時代にキリスト教の造物主を、神道の神々と同じ「神」と翻訳してしまったために、神の概念に混乱が生じたままになっています。一神教の造物主と多神教の神々は出自も違えば、思想も違っていて、互いに似て非なる存在です。現代の日本では、神道的神々について一切教育しないようにしているので、子供はもとより教師も親も「神」がなんだかわからなくなっています。

(4)こちら側と向こう側

大地の女神が狩りの獲物を生むように、こちら側のことごとくは向こう側から開きだされてくるという思考ないし実感は、こちら側をかくあるように存在せしめている鋳型は向こう側にある、こちら側のはかなさに対して向こう側こそ真実であるという世界観を育てていきました。

こちら側の人間には、向こう側は触れられず、目に見えず、理解することのできない超越世界であり、こちら側は向こう側から漏れでてくる神秘的なパワーによって生気を与えられている仮りの世界である、というように宇宙観は発達していきました。

(5)呪術の誕生

そうしてここに呪術が登場します。向こう側からこちら側の事物が生み出される、または開きだされる過程に、人間が持つ言葉と祈りの力によって干渉できるなら、こちら側はいくらかは人間が望むような形になるという思いこみです。

たとえば(A)雨を支配する神々に思いを伝えるなら干天に慈雨を招ける。(B)狩りは獲物を授けてくれるよう大地の生みの女神に祈願・要請することで、はじめて獲物を得られる。(C)うだつのあがらない人生でも向こう側のパワーを招聘できるなら勇者・勝利者になれる。(D)見初めた相手にそっぽを向かれるとき、祖霊に願うなら相手は自分を好きになるよう仕向けてくれる。(E)憎い相手を貶めるよう守護神に願うことで、憎い相手は凋落する。などなどというように、呪術は人間たちの現世利益を増大させるマインド・テクノロジーとして発達していきました。

呪術の基本は念力を強化して、物質世界に影響を及ぼすという超能力的発想にあるのではなく、決められた手順に従って、向こう側に属する神々や霊獣などの超自然的生命体に願いを託すという行法からなっています。施術者のパワーの強弱や熱意の度合いが呪術の効力を左右します。

(6)呪術の基本的思考法

意識を波動にたとえるなら、向こう側は日常的な意識状態よりも高密度で振動数が高く、純化された状態にあります。元来は精緻・清浄なものが、こちら側へと開きだされてくるにしたがって粗雑・不浄になるというのが呪術的物質観で、神・仏は高周波で振動する純粋な存在ということになります。日常的に神・仏・祖霊を感じられないのは、私たちの意識状態が彼らの波動・周波数にチューニングされていない、ないしチャンネルが合っていないためです。

呪術では呪術師が向こう側の存在とコミニュケーションするためには、意識を向こう側と同じレベルに変性させることが要求されました。神々や祖霊に働いてもらうためには、彼らの言葉を話し、褒めたたえ、好物を献上するばかりでなく、神々と会話できる意識の状態へと、自分を変容させていかなくてはならないとするのが呪術の論理で、呪術師の養成には、日常的意識状態を破って向こう側へと自分を開いていく修行が重んじられました。近代合理主義の感性では決して理解しえないことがらです。

(7)呪術のテクノロジー

現代では呪術というと、敵をのろう、嫌いな相手をおとしめる魔術としてしか理解されないのですが、本質的に呪術は、こちら側の未来が自分たちに都合のよい結果となるよう、祈念するための技法で、そのために、向こう側に通じる特殊な言葉で、目的に応じた神や仏などの霊的存在を招き、あれやこれやの供応をして、ある種の商取引をするという構造になっています。「呪」の漢字は口+兄からなっていて、兄は頭の大きい人の意味。神々に言葉で願う技術です。

呪術は向こう側の霊的存在と交流できる能力があり、そのための知識がある者が行なってこそ効力を高められる技法なので、古い時代から専門化し、それぞれの文化、時代や風土に適合した呪術師を育ててきました。仏教や神道、世界各地の土着宗教などの呪術的な仕様は、おおいに異なってみえますが、基本原理は同じです。

こちら側の未来を自分たちに都合のいいように整えるためには、向こう側に属している神秘的パワーを、こちら側で活用できるよう加工することも大事で、パワーを受けるアンテナとなるモノや、向こう側のパワーの宿りとなるモノ、「魔」を近付けないパワーを秘めたモノ、などは物実(ものざね、パワーオブジェクト)としてとうとばれ、お守りとされてきました。勾玉は日本列島の水田稲作文化のなかで発展したもっとも強力なパワーオブジェクトです。

(8)男と女の呪術の分化

次ぎに呪術が変移していく歴史について目をむけます。現世人類が誕生して20万年とか12万年といわれています。この過程のどこかで人類は言語を自在に操れるようになり、その能力を学習によって伝承・発展させてきました。長かった狩猟採集時代を通じて、主に男は獣を狩る狩猟に、女は植物性食糧や小動物を集める採集に食糧獲得の手段が分化し、男たちの間では狩りの呪術が、女たちの間では採集のための呪術が発展していきました。呪術は秘儀を重んじたため、入門儀礼を必要とし、たくさんのタブーを持つことになり、男たちの狩猟呪術は男たちだけで、女たちの採集技術は女たちだけで守られていきました。

男と女の職能分化は、女は身体つきも小さく狩りに向かないからではなく、他の動物に比べて子供の養育に異様なほど長期間を必要とするからで、成人した女は青年・壮年期の大部分を妊娠と育児に費やさなければならなかったためです。

狩猟採集時代という名称から受けるイメージほどには、この時代の食糧における獣の肉の割合は高くなかったといわれています。男たちはご馳走を提供するのと、近隣の同類たちと戦争するのが主だった役割で、常日頃は女たちが集めてくる食糧によって養われていました。男たちは狩りの呪術なくして獲物を得られず、戦争の呪術なくして敵に勝利できず、女たちは採集のための呪術なくして穀物、根菜類、果物などの食糧を手に入れられませんでした。蜂蜜を取るためには蜂蜜採集の呪術が必要でしたし、恋の成就には恋人獲得の呪術が不可欠でした。

[2]ヒメヒコ制と女の呪術の衰退5つの骨子

(9)農耕呪術の始まり

自生した穀物類の周囲の雑草を抜くなど、食用植物の群生を保護したところから農耕技術が組み立てられていきました。原始農耕社会では、農耕のための呪術は採集呪術が援用され、農地や農具、呪術に伴う祭礼・儀式は母から娘に継がれました。こうして原始農耕社会で母系文化が発展していきました。農耕に男が積極的に参加するようになったのは牛馬などの家畜を耕作に使役し、鉄製農具が使用されるようになってからのことです。インドでの研究資料には、農耕に男が参加するようになった当初は、男の呪術師は農耕儀礼に際して女装しなくてはならなかったとあります。この風習はいまもヒンドゥー教のシヴァ派の行者の間に残されていて、一定期間を女装して過ごす修行者がいます。

農耕が先か、牛・豚・羊などの家畜の所有が先かはいちがいに言いきれないところですが、農耕民の間から牧畜民が枝分かれしていきます。牧畜社会では女の呪術は不要だったためと、自分の娘を財産とし、おそらくは女の呪術の復権を恐れたことから、女たちは抑圧・蔑視され、族長が権力者となる家父長制が構成されていきました。

牧畜民が登場して数千年後、多くのケースでは気候の寒冷化と遊牧地の砂漠化などが原因で、遊牧民が大河流域の農耕民社会を侵略・征服するようになり、多民族が混交し、武力を誇る権力者に富が集中する古代都市が誕生していきます。メソポタミア、ギリシャなどが最適な例です。専制君主の誕生によって、神話も王侯貴族社会を投影したものに変じていきました。

シャーマニズムの古代史や宗教の歴史を学ぶ場合、原始狩猟採集社会のなかでの、母系的な文化の発展があらゆる呪術の基本にあることを理解するのは、とても重要です。

(10)生殖の原理と呪術の躍進

狩猟採集時代を通して連綿とつづいてきた呪術は、 「生殖の原理」の発見によって根本的に組み換えられました。性交・妊娠・出産というプロセスを経て生命が再生される生殖の原理は、人間・獣・植物ばかりでなく、宇宙の理解の仕方にも適応され、呪術は生殖の原理を中心に再構築されていきました。この現象はインドではタントリズムとよばれる土着宗教の発展形に顕著で、それが大乗仏教と結びついたものがチベットに移植されてチベット密教(金剛乗仏教)となり、いまに残されています。日本では水田稲作にまつわる呪術のすべては生殖の原理によって構築されています。

(11)ヒメヒコ制と古代勾玉

弥生時代から古墳時代にかけての日本列島では、農耕にまつわる女の呪術はヒメヒコ制といわれる政治形態をうみ、天皇が豪族の娘を宮廷に召す采女(うねめ)の制度によって、朝廷の呪術に統一されていきました。

勾玉はヒメヒコ制のもとでの物実(パワーオブジェクト)であり、朝廷は農耕呪術を天皇を頂点に置く祭祀形態のもとに統一するにあたって、勾玉パワーを朝廷の皇位継承の品ひとつだけに限定してしまいたかったようにみえます。かくして、勾玉が象徴する豪族たち各自の宗教儀礼・呪術は抑圧、消滅させられていきました。

(12)両系制社会の登場

農耕呪術は女がとり仕切るという習慣ゆえに、農地と農具 (鋤・鍬などどれもが神聖な呪具でした)を母から娘に継いでいく母系社会のもとで水田稲作は発展していくのですが、耕作地と収穫物と労力をめぐって近隣集落との戦争がつづくようになると、男たちの発言力や指導力に重きがおかれるようになり、母系社会は古墳時代から奈良・平安時代にかけてみられるような両系制度へと変貌していきます。

母系社会では呪術的主導権は一家の長たる母にあります。政治的権力は母の兄弟、娘からみるなら伯父が握っていました。伯父は婿入りさきでは役立たずの種馬的存在でしたが、いったん実家に戻ると権力者としてふるまったそうです。

(13)両系制と家父長の役割

両系社会では、伯父の役割を母の夫、娘の父がになうようになります。父親は一家・一族をとりまとめる家長に出世します。母系社会での婿入り婚は維持されますが、婿入りした男は嫁の父である家長に政治的・財産的援助を受けたのちに独立していきます。古代大和王朝の大王(天皇)家だけは、両系社会に後から参入した職能のためか例外扱いを受けていて、婿入り婚に影響されながらも婚家に暮らすことはなく、最初から嫁を娶り、王家=朝廷内で神事に従事していきます。ここらあたりが、奈良・平安時代の貴族たちの暮らしぶりの背景です。

娘を皇室に嫁がせた外戚たる豪族・貴族が政治的実権を握っていくのは、こうした婚姻制度あってのことです。いまでは娘の嫁ぎ先のお家事情に男親が口出しするのは想像するに難しいことですが、蘇我氏も藤原氏もそうやって朝廷内での権力者のポジションを確保していきました。

呪術が社会を導いていた時代、未来を神々任せにして暮らしていた列島の住民は、水田稲作による富の増大によって、経済重視の社会へとシフトしたことで、我欲優先の近代的自我をまとっていきます。

現代社会の住民である私たちは、既述してきたような古代の情景を胸のうちに納めながらも、生存していくための約束事にがんじがらめに縛られていて、ありとあらゆることを自分で決心しなくてはならず、目に見えない重圧にあえいでいるといえなくもありません。そして、こういう重苦しい社会であるからこそ、きままに暮らしていける道を見出だしてゆかねばならなくて、その方法のヒントになるのが古代の精神史を探ったり、天然石を可愛がることだと思っています。

[3]勾玉文化の背景にはヒメヒコ制があった

「人類は呪術を学んで賢くなった」と、このような経緯のもとに人類は精神宇宙を思い描き、そのなかに自分たちの地歩を築いてきました。そうしてここに向こう側とこちら側を結ぶ社会形態として、日本列島ではヒメヒコ制とよばれる文化が育っていきました。

政治を古い言葉で「まつりごと(政)」というのは、神祭りをして得た神託を首長・豪族が統治の要(かなめ)とした時代があったことの名残です。向こう側こそがリアルであり、こちら側は鏡に映った虚像のようなものなので、人間の判断よりも神々の指示のほうこそ真実という解釈です。

既述してきた理由で、神託を受けるのは女の役割で、彼女たちの基本形は神妻・巫女であり、統治するのは女の兄弟が担当しました。『古事記』『日本書紀』にはこうであったであろう姉妹・兄弟は、ヒメ・ヒコの名前でよばれることが多いので、この形態を便宜的にヒメヒコ制とよんでいます。大和王朝が誕生する以前には首長・豪族たちはすべてがヒメヒコ制によって統治していたというわけではなく、そういう形態があったということです。 勾玉は個人のお守りとしてよりも、こうした巫女と神官・行政官が向こう側のパワーをひきだして自分をパワーアップする呪具として意義があったように思います。そうであったからこそ、勾玉は大和王朝だけではなく各地の豪族が祖先を祭る祭祀権の象徴となりえたのでした。

ヒメ(媛・姫)は日女であり、ヒコ(彦)は日子、ヒは霊でもあるので、霊を宿した女と男の意味になり、同じ語彙ではヒ(霊)が身体のうちにとどまった存在がヒトです。ついでには、「ヒモロギはヒを盛る木のようだし、チとヒは同じ意味なので、チガヤはチ(霊)が付くカヤ(茅・かや)。稚児はチ(霊・祖霊)が憑いた幼児。」

邪馬台国の卑弥呼が最適な例で、卑弥呼は日(霊)巫女。終生独身で楼閣にひとり暮らして、他者に会わず、鬼道に仕え、弟にのみ神託を伝えるとあるのは、母系社会的な女呪術師の姿です。古代中国では「鬼」は死者・祖霊を意味したので、卑弥呼は天帝のような道教的神ではなく、祖霊を信仰していたと考えられています。

ヒメヒコ制では、崇神天皇の次の天皇、垂仁天皇紀によく引きあいにだされる物語があります。垂仁天皇の皇后サホヒメにはサホヒコという兄がいて、兄は自分が天皇になろうと企て、サホヒメに天皇を刺殺するようそそのかします。サホヒメは彼女の膝枕で眠る天皇の首を刺そうとしますが、どうしても実行できません。

古代には女の呪術の延長で、「うけひ寝」という夢占いの方法があって、妻の膝枕でうたた寝することで、彼女から霊的パワーを得て神からの夢を授かったといいます。小さな蛇が首に巻きつくという不思議な夢を見たという天皇に対して、サホヒメは謀反の企みを白状してしまいます。天皇はサホヒコを征伐するために軍隊を差しむけ、夫と兄への愛に板挟みになったサホヒメは、心ちぢに乱れながらも兄との籠城を選び、天皇の子を妊娠していたので、出産してから焼死してしまいます。

姉妹兄弟の間には血のつながりだけでは解釈できない霊的紐帯があることに注目して、柳田国男はこれを「妹の力」とよびました。(女には霊感がある、というのは生得的なものではなく文化的なもので、父系社会の迷盲と思います。)

女の農耕呪術が家を繁栄させるので、兄弟は姉妹の呪力の庇護下に入ることになります。姉妹のパワーを受けて兄弟は活力を得る。その活力は兄弟の運気・運勢を高めての家運を隆盛させていく、といった「妹の力」は沖縄では「おなり信仰」に発展していきました。姉妹・叔母を介して神的パワーがおなり(おいで)になるとする信仰です。妹に巫女(神妻)としての性格が強い場合は、未婚のまま生涯をおえるので、女の呪術的守護力は母の姉妹から娘のひとりへと継がれていきます(叔父と姪は政治的つながりであるのに対して、叔母と姪は霊的に結びつきます)。

神話伝説の豊玉姫や玉依姫は、神秘的な玉(魂)を宿す・依りつかせる能力にすぐれた巫女の名前です。ヒメヒコ制はいまもときおり先祖帰りすることがあって、とても仲のいい兄妹・姉弟の関係性に霊的つながりを眺められる場合があります。

[4]ヒメたちを招聘することで朝廷の列島支配がすすむ

記紀にみる天皇の年代記では、古墳時代初期の崇神・垂仁・景行天皇などの時代にヒメヒコの名が多くあらわれ、古墳時代中期から後期にかけては、豪族の娘であるヒメを天皇に献上して、ヒメヒコ制を解体させる「采女(うねめ)」の時代に移っていきます。

女の農耕呪術がさかんだった土地に父系制の王国を築いた初期大和王朝が、応神・仁徳・雄略天皇などの登場で列島に統一国家が出現する過程と、ヒメヒコ制の解体・采女の登場は合致しています。たとえば『日本書紀』の履中紀には、謀反に連座して斬首されそうになった倭直吾子籠(やまとのあたいのあごこ)という人物が、妹日野媛を貢ぐことで罪をまぬがれたという記事があって、これを采女の始まりとしています。

雄略天皇のときには、酒宴の席で粗相をした采女が天皇の怒りに触れ、その場で斬り殺されようとしたとき、采女はとっさに天皇を称える歌を詠んで命拾いしたという話や、一夜だけの交わりで女子を産んだ采女を天皇が疑い、家臣に諭される話などがあります。

采女(うねめ)は宮廷に彩りを添える女たちの意味で、当初は大王(天皇)の食事の世話をすることが主な職務でした。国元で神に仕え、神の世話をし、神が望むならば夜伽(よとぎ)した巫女としての仕事がそっくりと大王相手に転嫁されたのです。

大和王朝としては、豪族たちが祭る神々が自分勝手な神託を下ろすのは非常に困るわけで、神祭りを一元化する必要に迫られていました。その手段が機会あるごとの豪族潰しや、巫女を召して豪族の神祭りを無効にしてしまうことでした。

豪族潰しではたとえば、第21代・雄略天皇のとき葛城氏が勢力をそがれ、第22代・清寧天皇のとき吉備氏が凋落し、第25代・武烈天皇のときに平群氏が衰退、やがて物部氏が蘇我氏に敗れ、蘇我氏は645年の乙巳の変(いつし、大化の改新)で没落し、672年の壬申の乱では天智天皇を取りまいていた有力豪族は一掃されて、天武天皇は独裁的な専制君主となり、中央集権国家の運営にのりだすといった具合です。

采女の献上は、娘を人質にとって豪族の反乱を防ぐという目的のほかに、豪族独自の祭祀を無効にするという目的もあり、もうひとつ、天の象徴である大王(天皇)が地の女の采女と交わることで大地の豊饒さを再生する聖婚儀礼の再現という、目的もあったようです。古代の出来事には、政治経済や権力闘争の視点だけだと片手落ちになってしまう、呪術への認識があってはじめて、全体像を理解できることが多々あります。

大王に献上され、他のものが指一本触れることを許されなかった采女は、当初は神化した大王の神妻のようでした。采女との密通を疑われただけで殺されていった男たちが何人もいました。けれど古墳時代も後期になって、人間中心の経済重視社会へと価値観が移行していくと、采女の聖性も薄れていきます。

古代の天皇はいうまでもないことですが、一夫多妻でした。天智天皇の時代には皇后が1名、妃(ひ)として皇族の女性2名、夫人(ふにん)として3位以上の貴族の女性を2名、嬪(ひん)として5位以上の女性を4名、都合9名を公的な妻にできました。彼女たちの生活費は国庫から支給されました。采女は妻として認められない存在でした。天皇の色好みが穀物の豊作と国家の繁栄をうながすと信じられていたので、天皇は数多くの女性と交わるよう期待されていました。

天智天皇は采女のひとりを藤原鎌足に与えています。『日本書紀』ではその采女は妊娠していて、後に生まれたのが藤原不比等であると、不比等を貴人化する物語になっています。この天皇は別の采女に産ませた身分の低い子を、当時の慣習を破って皇太子にしました。それが原因で古代史最大のクーデターである壬申の乱が起きて、専制君主国家になっていきます。

さらに時代が下ると、采女の身分は後宮の下級職員へと低下していきます。巷では、神社の巫女を采女とよぶようなことも始まって、女の呪術が男に霊的パワーを与えるという精神世界的解釈は、男性中心社会のなかで粗雑・猥雑・即物的な解釈をされるようになり、門前町の売春婦を指すようになっていきます。

まとめるならば、原始農耕社会での女の呪術は、男たちが農耕に参加し、近隣集落との戦争に明け暮れるようになって変貌していきます。男が女よりも社会的優位な立場にたつようになり、両系制社会へと移行していきます。さらにはヒメたちが采女として朝廷に招聘されることで、女の呪力は「妹の力」として男たちの影に隠れていきます。

この過程は勾玉文化が栄えて消失していく過程に重なるし、巨大前方後円墳が衰退していく過程にも重なります。継体天皇あたりに始まり、蘇我馬子・聖徳太子を経て、天智・天武天皇へと至る時代に、農耕呪術を下敷きにした精神原理が社会を牽引していくことがなくなり、近代的自我による経済重視の社会が形成されていったようです。勾玉は「妹の力」的な文化に属していたがゆえに、新しい文化から無視され廃れていったように見えます。

[5]勾玉文化は現代によみがえりたがった

『古事記』と『日本書紀』には銅鐸について一言も触れられていません。同じように『万葉集』には「玉」に触れた歌はあっても、勾玉をよんだ歌がありません。奈良時代以降勾玉はすっかりと忘れられたようで、江戸時代も終りごろになって国学が盛んになるまで興味の対象になることはありませんでした。

国学者たちに『古事記』が読まれるようになると、勾玉は神代の遺物として骨董品趣味の人たちに愛玩されるようになります。「幕末の北方探検家」で「北海道」の名付け親だった松浦武四郎(1818-88)という人物がいて、彼が収集した骨董品の数々が、三重県松阪市の松浦武四郎記念館という所に残されていますが、それらを見ると、彼の時代に作られたメノウや碧玉の勾玉があって驚かされます。江戸時代末期や明治時代には、国学や古代趣味な人たちの需要を満たすよう出土品を模した勾玉が製作された模様です。

それからもう少し時間が経って、新潟県糸魚川地方で翡翠原石が再発見され、ついで昭和30年に原産地が国の天然記念物に指定されると、戦後の高度経済成長期の日本列島総観光地化のあおりもあって、日本翡翠は新潟・富山県境地帯の特産品になります。そこではコシヒカリやトチオトメのように糸魚川翡翠というブランド名でよばれたりしました。

それでも日本翡翠は宝石業界から見向きされませんでした。日本翡翠は緑色であっても薄すぎたり濃すぎたり透明度がなかったりして、宝石としての質が低かったためです。日本の宝石業界は欧米の価値観に追従しているだけで、国内産の「宝石」を大切にしてこなかったことの影響もあります。

日本翡翠をはじめ、ビルマ翡翠や、その他天然石の勾玉が流行して、今日のようにたくさんの人たちが勾玉ファンとなり勾玉をコレクションするようになったのは、インターネット・ショッピングが消費の一形態となってからのことです。それも懐古趣味や地方の特産品としてではなく、勾玉にスピリチュアルな意味を求める人が増えてのことです。ここ10年ほどの間に作られた勾玉の総量は、おそらく古墳時代の数倍あって、この現象は勾玉文化の復活といってもいいことがらです。

それにしても、日本翡翠勾玉の製作が放棄されてからおよそ1500年間、その間、糸魚川地方の海岸にはそれまでと同じように翡翠原石が打ちあげられていたのに、それが話題にならなかったのは、とても不思議です。なかには誰が見ても宝石のように美しいものもあったはずなのに、戦後に姫川の支流小滝川で翡翠原石が確認されるまで、翡翠は神隠しにあったごとく話題になることはありませんでした。現代と違って昔の人たちは散歩する習慣がなかったし、子供たちは海岸で遊ばなかった、漁師は石に興味を持たなかった、ということがあると思います。

たまにきれいな石を拾う人はいても、きれいなものに心を止めて大切に扱う気持ちや、磨けば高価な「玉」になるという知識がなければ、きれいな石は宝石へと成長していかないし、社会的発言力のある人と日本翡翠は出会うことがなかったことも大きな原因です。世の中の移り変わりの根底には見えない意図のようなものがあって、人々の潜在意識がそれを必要とするときに、それまで見過ごされていたものが、価値あるものとして実体化してくるということのようです。

[6]続・勾玉文化は現代によみがえりたがった

勾玉文化の消滅と現代への復活には因果関係のようなものがある、そこに視線を向けると、勾玉を積んだ列車が時空のトンネルに入り、約1500年後にトンネルから出てくる情景が浮かびます。トンネルに入ったのは母系社会が男文化に覆われていった時期で、トンネルから出てみたら男社会は疲弊しきっていました。

再三述べてきたように、勾玉がすたれていった古墳時代末期は、女の呪術の衰退期で、男性中心の権力構造のもとに中央集権国家が作られていった時代であり、現代における勾玉の復活は、家長である父親の権威が失墜したことで家父長制が弱まり、男女平等を旗印にした社会がつくられようとしている時期に相当します。女性の権利・財産所有を主眼にするなら、勾玉列車がコインの裏から表へと突き抜けてきたような印象です。

高度経済成長期の大量生産・消費社会の出現で、父親が会社人間化したこと、物資と情報の流通が国際化して世界がアメリカ中心の単一の価値観に覆われたことで、1970年代あたりから以降、いろいろなことがドミノ倒しのように連鎖して起きました。

たとえば、仕事で忙しい父親が家長として振るまえなくなったことで、近所や親戚縁者との関係性は希薄になり、冠婚葬祭や集落の祭事のために家に人が集わなくなりました。住宅事情もあって、掛け軸・骨董・盆栽・水石(すいせき)など床の間文化が衰退していきました。男たちは審美眼を養う機会を放棄して文化的に劣化したのです。

グローバリズムに伴う情報の自由化と、大量で過剰なまでの情報の伝搬は、婚前交渉やめまぐるしく変遷していく流行を正当化して、これを制御できない父親の権威を失墜させていきました。父親の収入だけでは自宅のローンや子供の教育費を賄いきれないこともあって、母親も働くようになり、父親の発言力はさらに弱まっていきました。欧米風にソフィスケートされ、プライバシーを重視する風潮が対人関係の希薄化をうながし、父権の威光をさらに後退させていきました。社会通念としては、長男が持ち家や墓を継ぐ家父長制度が維持されているようであるけれど、父親が妻や息子・娘を支配できない父権なき世の中になっています。

こういう社会のなかで、従来の父権とともに放棄した古い価値観に変わる新しい生き方の枠組み(パラダイム)を持ちあぐねているのが、現在の私たちです。

現代社会の閉塞感、暮らしていくうえでのあまりのうっとうしさと重苦しさはこうして醸しだされています。漢字を連ねれば、無力感・閉塞感・倦怠感・疎外感・重圧感・挫折感、といった思いが両肩にかかってまるで浮遊霊に憑依されているよう、払いのけたいのだけれどどうにも払いきれない、といった感じです。

物質的豊さが幸福な暮らしを約束すると教えられてきたのに、嘘ばかり、まったくもってそうではなかったという暗澹忸怩たる思いが、ここに重なります。

勾玉が現代によみがえったことの背景には、私たちの心の中に人類の完全性と古代を結び付ける元型(アーキタイプ)があって、心は古代の息吹によって浄化・再生されることを願っている、そうした思いがあるようです。

心の内なる古代が勾玉によって覚醒するとき、向こう側のパワーを受け取れて、いまよりも伸び伸びと暮らせる生き方があることに、みんなが気付けることでしょう。

ながくつづけてきた日本翡翠と勾玉の歴史は、ひとまずこれで終了です。インターネットによって情報の収集は超便利になったけれど、反比例するがごとくに世の中は劣化しているように見えます。回復の妙薬は、みんなが向こう側の力に気付くことです。物理学的解釈では神・仏や死後の世界・運命は存在しえない。しかし人類はもろもろの精神世界を築くことで、驚嘆するほどに価値のある文化を形成してきました。それを発展させてゆかないと、子供たちに豊かな世界を残してやれない、私たちはそういう瀬戸際にいて立ち往生しています。