日本翡翠情報センター(糸魚川翡翠・ヒスイ海岸・翡翠勾玉・翡翠大珠・ひすい)

日本翡翠と勾玉、天然石の専門店《ザ・ストーンズ・バザール》が運営する日本翡翠専門のホームページです。『宮沢賢治と天然石』『癒しの宝石たち』『宝石の力』(ともに青弓社刊)の著者・北出幸男が編集・制作しています。(糸魚川翡翠・ヒスイ海岸・ヒスイ採集・翡翠勾玉)。

ANCIENT HISTORY

秘められた縄文翡翠には祖霊への愛が充満していた

以下のページは絵本的作りのホームページというより、まるで電子書籍のようです。「日本翡翠情報センター」HPを単行本化するのかどうか、現時点ではまったくわかっていません。それでも書くことが生業(なりわい)であれば、縄文時代のご先祖への共感を日本翡翠にことよせて残しておきたいと思っています。

[1]日本列島を謎の翡翠文明が覆っていたことの不思議

当社製の第一号ビルマ翡翠製大珠。製作したのは十数年前の日本。まだ甲府の宝石産業が元気だった時代のことで、翡翠原石もことのほか高価だった。大きな翡翠大珠にはヒーリングにおいて大きなパワー効果を期待できる

大きなものから小さなものまで、高価なものから普及品まで、これまで当社ではたくさんの日本翡翠製大珠を作ってきた。その数たるや、いまでは遺跡から出土した量を越えるほど

軟らかな緑味がある高品質な日本翡翠原石から製作された翡翠製大珠。こうした大珠を手に、「ふるえふるえ、ゆらゆらとふるえ」と呪文をとなえると、眼の前の大気が割れて異界の門が開くような感触が生じる

いまから5000年ほど前、謎とよぶしかない翡翠文明が縄文時代の日本列島を覆っていました。最初は大珠(タイシュ)、次には勾玉へと形を変えて、翡翠を愛好する文化はおよそ3500年間つづいた後、忽然と姿を隠してしまいます。

古代エジプトのピラミッドのような派手な建造物がないし、教科書で強調されてこなかったしで、つい見逃してしまいがちですが、人類の歴史全体からみて、5000年前に特定の宝石を愛好する文化があったということは、当時の世界に類をみない、真に驚くべきことのひとつです。

30-50人ほどの人たちが小さな集落を作って、海辺で貝を漁ったり、森の木の実を拾ったり、イノシシやシカを狩って、素朴で原始的な生活を営んでいた、という旧来の縄文時代のイメージは、1992年に始まった東北の三内丸山遺跡の巨大な集落跡の発掘によって、根底から覆されてしまいました。

同じように縄文翡翠文明の発見と理解は、超古代に人やモノが行き来するジェード・ロードが日本列島中に張り巡らされていたという驚きをもたらしました。粗末な堀っ建て小屋に暮らして自給自足の日々を送っていたはずの縄文のご先祖が、その実何百キロも旅をする交易商人でもあったのです。

なぜ日本翡翠が「魔法の石」のごとくに選ばれて日本中に運ばれたのか? それにはどのような意味があったのか? 大珠とよばれる翡翠製品はどうやって使用されたのか? 勾玉は何のためのものだったのか? 詳しいことは何もわかっていません。何もわかっていないので、謎とよぶしかないのですが、新潟・富山県境のヒスイ海岸一帯で採集された翡翠原石は、往古の人々にとっては神秘的なパワーが蓄えられたバッテリーのようなものだったようです。

古代では狩猟・農業・戦争・政治など、あらゆることに呪術が先行したという文化人類学や考古学の研究成果を踏まえるなら、翡翠は縄文・弥生・古墳時代の呪術の中核にあったことは間違いありません。いうなれば翡翠は元祖パワーストーンのようなもので、3500年間つづいたパワーストーンへの愛玩が、1500年間のブランクを経て現代によみがった背景には、見えない意志とよべる暗合があるようにみえます。

[2]翡翠製大珠の出土は意外なほど少ない

日本翡翠の大珠や勾玉については拙著『宝石の力・幸運は形に宿る』(北出幸男、青弓社、2003)などで触れてきました。データが古くなっている部分もあるし、私自身当時より現在のほうが幾らかは賢くなっていることもあって、内容が旧著と異なる点もあります。

「考古学上最古の大珠は山梨県の天神遺跡(縄文時代前期末)から出土したもので、最大のものは約16センチ、富山県の朝日貝塚(縄文時代中期、JR北陸線越中宮崎駅のヒスイ海岸に近い)から発見されている。通常は5センチから10センチほどの大きさ、中央やや上寄りにスッキリとした孔があけられているのが特徴で、初期のものは転石に多少手を加えただけのものが多く、のちには鰹節型(細長い楕円形)に整形されたものが目立つようになる。これまでに発掘された総量は二百余におよび、北陸・中部山岳・関東地方を中心に北海道から九州にいたるまで全国で出土しているが、近畿・中国・四国地方からの出土例はない。5千年から3千年の昔、日本列島にはすでに、日本海側を中心とする文化圏と瀬戸内海を中心とするそれとの二つの文化圏があったということなのだろうか?」
(p87『宝石の力・幸運は形に宿る』前掲書)
「ヒスイ製大珠に使用される原石はどこからくるのか、鉄器のない時代にどのような方法でかくも見事な孔をあけることができたのか、長い間謎とされてきたが、1939年に新潟県糸魚川市一帯(新潟・富山県境地方)でヒスイ原石が産出することが確認されて原産地の問題はかたづき、孔あけについては、研磨剤を使用する磨製石斧の製作技術がシベリアから伝わり、それを転用したと考えられるようになっている。なんと、縄文時代の人々は、細い竹管を使って、水晶よりも加工しにくいヒスイにスッパリとした孔をあけることができたのである。」
(p87『宝石の力・幸運は形に宿る』前掲書)

この原稿を書いた当初から、これまでに発見発掘された翡翠製大珠の数の少なさが気になっていました。たとえば『古代翡翠文化の謎』(森浩一編、新人物往来社、1988)所収の「ヒスイの玉とヒスイ工房」(寺村光晴)には以下のように記されています。

「硬玉製大珠は北海道から九州に至るまで、現在全国で二百数十個がみつかっています。そのなかで多いのが東日本で、北陸地方・中部山岳地帯で全体の40%、関東地方を含みますと、実に70%近くなります。時代は中期がもっとも多く75%、後期になりますと20%前後くらい、その後はポツポツという感じになります」

時代区分では縄文中期は5-4千年前、後期は4-3千年前。後で述べるように、西日本での出土が少ないのは縄文時代には北九州を除いて文明拠点がほとんどなかったからで、後期には文明が疲弊し、交易も衰えたからだと思われます。人口の少なさも原因のひとつとしてあります。それでも中期と後期を足して2千年間。この間の出土数として二百数十という数は、あまりに少ない感じがして、この数への疑問は深まるばかりです。みんなが欲しがればたくさん作られるだろうし、需要がなければ長期間にわたって同じものが作られたりはしなかったでしょう。

[3]天然石ピアスと磨製石斧から翡翠大珠への飛躍

Cタイプのビルマ翡翠で試作したけつ状耳飾り。古代には翡翠からけつ状耳飾りは作られなかった。遺跡出土品は素材が風化して色が退色しているが、蛇紋岩ならこの見本に近い色合いをしていた

古代中国の玉(ぎょく)製品の一種で「ケツ」。ドーナツの一部を切り取った形状をしている。けつ状耳飾りの名称はこの形を参考になづけられた

資料によってつ状耳飾りは滑石製品と書かれているが、写真のような滑石ばかりではなく、蝋石で作られたけつ状耳飾りもあった。のちには多くが蛇紋岩で作られるようになる

当社は石ヤなので、遺跡出土品も素材が気になる。写真で見るけつ状耳飾りと似た石を探して蝋石にたどりついた。写真は1円玉ほどの大きさのネパール製蝋石ビーズ。通常は滑石と蝋石は厳密に区分けされることなく流通している

縄文翡翠文明には天然石ピアスや磨製石斧を作る前史がありました。6000年ほど前、縄文早期末葉~前期初頭という持代に、富山湾の周辺一帯で、滑石や蝋石という軟らかい石を使ったけつ状耳飾りというものが作られ、列島各地に運ばれていくようになります。

けつ状耳飾りは直径3センチ前後の平らなドーナツの一部に切れ込みを入れた形をしていて、耳朶(みみたぶ)に孔をあけて装着したピアスだったと考えられています。呪術的視点からはこの製品は耳から入る「魔」を防ぐ効用があった、あるいは祖霊・精霊の声を聞きやすくするためだったと考えられます。

やがては滑石や蝋石よりも硬い蛇紋岩からけつ状耳飾りが作られるようになり、同じ素材を使った蛇紋岩製磨製石斧が富山・新潟県境地方の特産品になっていきます。たとえば、富山県上市町の極楽寺遺跡からは1千点以上のけつ状耳飾りや飾玉、原石が出土しているというように、けつ状耳飾りも磨製石斧も現地での需要をはるかに越える量が製作されていました。

石を磨いてピアスを作るという発想や製作技術は、かつては北の方から伝搬してきたと考えられていたのですが、近ごろでは江南のほうから海流にのって移住してきた人々の影響があるとか、現在の内モンゴル自治区にあった紅山文化あたりからの移住民の手によるとの説が語られるようになっています。

蛇紋岩やネフライトで磨製石斧を作っていた人たちのなかに、海辺で拾った翡翠原石に魅入ってしまった人がいた。それはきっと石斧に似た形をしていたことでしょう。彼/彼女は蛇紋岩と翡翠との硬度の違いをものともせず、それに孔をあけた。そうして紐を通して首にかけると、胸の中心でパワーが渦巻くようでドキリとする感触があった。そうやって翡翠製大珠は作られるようになったと思います。

蛇紋岩と幾らかそれに類似したネフライト(軟玉翡翠)は緑が濃い石です。超古代には洞窟の女神・地母神の生命力は赤い色をしていて、獣や木の実・穀物を育む力は緑色をしていると考えられていました。朱色をした辰砂(丹生)や緑色が色濃く宿った蛇紋岩・ネフライト類は、そうした女神の神秘的パワーが凝集したものと考えられていたのです。

自分の気持ちを古代へと調律すると、蛇紋岩が霊的に特別な石であることがわかります。それには大地の奥へと気持ちを連れていくような力があり、身体の奥の方に草たちが育つのと同じような力がわいてくるのを感じられます。

翡翠もまた大地のパワーをとことん凝集させたかのような力のある石で、たとえ緑色でなくても大地の女神との親和力を強めてくれます。翡翠大珠を手にしたご先祖たちは、こうしたことを自明の理として、パワーに共振できる感性を備えていました。こうした野生の知性は現代の私たちのうちにも埋もれていて、パワーを理解するもととなっています

その時代、北陸の土地は列島の文明のメッカであり、翡翠製大珠を手に入れたい、それに関連した呪術をマスターしたいと、各地からシャーマンが押し寄せたのか、あるいは、後の時代の越中富山の薬売りのように、越(こし)の人たちが大珠や磨製石斧などを持って、各地へ交易に出かけたのか、どちらだったのかということもわかっていません。

JR北陸線青海駅から徒歩30分ほどのところにある寺地遺跡は翡翠工房跡として名高い遺跡ですが、この集落には聖地であったことを表明しているかのような、巨木を中心として、大きな胎児のように見えなくもない謎の配石遺構が残されています。

[4]縄文時代のあまりの長さに息もたえだえ

縄文時代の翡翠工房があった寺地遺跡には巨木遺構がある。諏訪大社の御柱につながりそうな遺跡だが、柱の長さなど詳しいことはわかっていない。写真右手奥のほうに復元された翡翠工房のある竪穴式住居が見える

寺地遺跡の巨木遺構はたくさんの石ころを並べて作った配石遺跡の一部をなしている。縄文呪術に関連して通過儀礼など秘儀が行われたであろうこの遺構は、見ようによっては胎児の形や龍の姿に見える

フォッサマグナ・ミュージアムに展示されている寺地遺跡出土の磨製石斧。縄文の職人たちの本業は磨製石斧作りにあって、翡翠大珠は本業の合間合間に作られたと想像されている

翡翠工房遺跡としては寺地遺跡よりも規模が大きい長者が原遺跡に復元された竪穴式住居。一度固まったイメージを塗り替えるのは難しいが、縄文のご先祖たちは住居から想像されるようには原始的ではなかった

長者が原遺跡から山を下ると姫川の河原に出る。そこから河口は指呼の距離で日本海を望遠できる。河原では転石として運ばれてきた蛇紋岩やネフライト(軟玉翡翠)、翡翠原石を拾うことができた

JR北陸線・越中宮崎駅近くのヒスイ海岸。ヒスイハンターの衣服を変えればそっくり縄文時代の風景になる。翡翠原石を拾うのは乙女の役割だったという意見もある。

いまから3万年ほど前、日本列島が朝鮮半島やシベリアと陸つづきだったころ、私たちのご先祖である縄文ピープルのさらなる先祖の旧石器人はすでに列島に暮らしていて、ナウマンゾウやオオツノジカ、バイソンといった大型哺乳動物を狩って暮らしていました。

いまよりも寒い時代で、東日本は北海道並の寒さ。彼らの狩りの道具は石を丁寧に割って作った打製石器のヤリでした。冬には雪が降りつのる。小さな焚き火を囲んでの洞窟暮らしは、みんなでダンゴになって眠っても凍えるほどに寒かったことでしょう。

およそ2万年前に最寒冷期があって、その後温暖化してくると、東日本では草原が減ってナラやブナなどの落葉広葉樹林が広がるようになります。さらには海水面が上昇して陸を浸した海岸線では小さな入り江がたくさん生じました。温暖化と旧石器人の食欲のために、寒い土地の草原に適応していた大型哺乳動物は絶滅してしまいます。

こうした気候変化を背景に、時代区分での縄文時代はいまから1万2千年ほどに前に始まり、約2千500年前の弥生時代の始まりまで1万年間つづきます。

遡上してくるサケを捕らえ、干潟の貝類を採集し、丸木船に乗っての漁労を始め、弓矢の使用を覚えて森のイノシシやシカを狩る、煮炊きのための土器を発明してクリ、ドングリなど木の実の保存食に依存できるようになって、縄文ピープルの生活は安定してきます。竪穴住居に定住するようになり、環状集落が発達しました。黒曜石や翡翠の交易路がそれぞれの集落を結ぶようになりました。

縄文時代はおおまかに草創期(1万2千年~1万年前)、前期(1万年~6千前)、中期(6千年~4千年前)、後期(4千年~3千年前)というように大別されます。一番の発展期は中期にあって、東北では古代文明の呼び名にふさわしい三内丸山ムラが栄え、新潟・富山県境産の翡翠が大珠に加工されて、東北・北海道・関東などに運ばれました。

後期になると寒冷化と異常気象などの影響で森や海の食糧源が減少し、人口も激減します。人々はより強く呪術に依存するようになったようです。土偶の大量製作やストーンサークルの出現(死者のよみがえりを恐れたらしい)が、こうした縄文ピープルの切実な心境をあらわしています。弥生時代の始まりは息もたえだえで滅びかけていた時代の救いとなったようです。

男性器をあらわしているといわれる石棒や、女性像が大多数を占めている土偶、貝塚という設備や、環状集落の中央に墓をもうける習慣、などが遠い昔のご先祖の精神世界を復元するカギになります。石棒や土偶については後述しますが、そうやって見えてくるのは生殖の原理を軸にした呪術的な世界で、そこに翡翠大珠を投げ入れると、縄文文化の隅々にまで神秘の波紋が広がっていきます。

[5]縄文時代の人口は現在の杉並区の半分程度

縄文ピープルの暮らしぶりについて考えると、近所の野山や海岸など至る所で、毛皮の着物を着た人たちがさんざめいている姿が浮かんでくるのですが、その実、どこに行けば彼らに会えるのだろうと思えるほど人口密度の小さな社会でした。あまりの人口の少なさに驚くほどです。

『日本二千年の人口史』(鬼頭宏、PHP研究所、1983)という新書には、小山修三という研究者によるデータが表になっていて、千人以下を四捨五入すると、北海道と沖縄を除いて、縄文早期(1万~6000年前)に約2万人、縄文前期(6000~5000年前)に約11万人、縄文中期(5000~4000年前)に約26万人、縄文後期(4000~3000年前)に約16万人とあります。p13

しかもこれらの人口は東日本と西日本では密度がものすごく違います。

「縄文時代中期をとってみると、東日本(東北・関東・北陸・中部・東海)の人口は25万3000人と総人口のなんと96%をも占めていた。これに対して西日本(近畿・中国・四国・九州)では9500人でしかなかった。東日本の人口は、激減した後期でさえも88%を占めているのである。」
p24『日本二千年の人口史』

こうした人口推定値にどれほどの精度があるのかわかりません。しかし、日本翡翠で大珠が作られ、おもには東日本各地に運ばれた縄文中期という時代は、現在の過疎の村が大都会といえるほど人口が少なかったようです。

たとえば25万人前後の人口は、大雑把に100万人を越える都市、仙台市や広島市の4分の1ほどで、東京都杉並区や板橋区の半分くらい。これを北海道と沖縄を除く日本列島全部にばらまいた程度にしか人がいなかったようです。

「人口が多い土地でも隣の集落とは徒歩2時間以上離れていたようだ。」(『農耕社会の成立』石川日出志、岩波新書、2010)と書いてある資料もあります。

縄文時代中期の人口密度は関東地方で1平方キロあたり約3人くらい、近畿・中国では縄文後期に幾らか人口が増加したが、それでも1平方キロあたり0.1人程度、10平方キロにひとりくらい。西日本の人口がとくに少ないのは、当時の照葉樹林帯に属する環境では、ドングリやクリなどに食糧を依存できなかったためです。

しかも彼らは知性を磨いたり、趣味を深める余裕もないほどに短命でした。前掲書『日本二千年の人口史』によると、15歳まで生存した男女も、平均すると31歳ころには死んでしまったようです。50歳まで生存した人は少なく、60歳以上の高齢者はごく稀な存在でした。昔話の翁・嫗(おきな・おうな)は意外に若くて、いまなら30~40代くらいだったのではないでしょうか。

私たちが縄文時代にタイムスリップするとしたら、気が変になってしまいそうなほど静かな世界に彼らは暮らしていて、1ヶ月間同じ夕食のメニューでも、それを不満に思うことがなかったようです。推測するに、彼らはちょっとした言葉じりをとらえてはよく笑った人たちでもありました。

[6]変化を好まない人たちの1万年間の暮らし

1万2千年前とか1万年ほど前、素焼きの土器を作ることで始まった縄文時代は、1万年以上の長きに渡って、細かく見れば特記すべき変化はあったにしろ、大勢からみればおよそ400世代に渡ってさほどの変化もなく、日々の技術革新など決して求めなかった人々によってになわれました。

彼らの大部分は親世代の見よう見まねをして、昨日と同じ今日という織物をたんたんと織って死んでいった。彼らは3日間かけて1頭の鹿を追っても狩りを合理化しようとは考えなかった。川辺に座って鮭の遡上を1週間待っても退屈しなかっただろうし、くる日もくる日も同じ朝食を食べても平気だった。日々の創意工夫にはとんと縁がなかったようです。

この変化のなさは、躍進と革新こそが意義あることがらであり、新しいものがイコール正しいものと認識しがちな、私たち現代人から見ると、なんだかとんでもなく奇異なことに映ります。

かといって彼らが努力を知らない無知蒙昧な野蛮人だったわけではないことは、火炎土器や日本翡翠大珠などの遺跡からの出土品を見れば一目瞭然であるし、三内丸山遺跡の土木技術をみれば、藤蔓をなう知識のない私たちのほうが、生活技術は無知であるといえなくもありません。(躍進や改革、生産の合理化を追い求める現代文明の姿勢は人類の歴史からみるなら、狂気そのもののようにみえます)。

呪術を根幹とする文化は自助努力や変化を嫌います。完全さは遠い過去にあり、定められた日時に、決められたとおりの方法で行う儀式こそ、神々・祖霊を喜ばせ、未来を安定させる手段だったからです。

それにしても、この変化のなさをよしとした人々はどういうメンタリティだったのか不思議に思います。ここでの自我は現代人のように肥大し、切迫した様相ではなかったのでしょう。そういう彼らにとって日本翡翠の大珠はなんであったかを考えはじめると、考古学の情報だけでは、納得のゆく答えを得られなくなってしまいます。

[7]ご先祖は石棒に万物を育むパワーを見ていた

日本の古代史では石棒だが、インドではシヴァ・リンガとよばれ、インド哲学では存在の第一義・宇宙的パワーの象徴とされてきた。生殖の原理に目覚めた縄文のご先祖も、ここに物質世界を転変させていく原初のパワーを見た

上の水晶製シヴァ・リンガ(高さ約11cm)同様、ビルマ翡翠製(高さ約5cm)もとても珍しい。縄文時代には砂岩などで作られた石棒はストーンサークルの要(かなめ)に置かれたり、住居内に祭られたりした

もっともポピュラーなシヴァ・リンガはリンガ・ヨニとして知られている。ここには物質世界を女神シャクティのマーヤー(幻)と見る思想が秘められている

密教で大日如来の身体であり、物質世界の象徴として認知される五輪塔も、石棒(シヴァリンガ)から発展してきた。石棒の信仰は生殖の原理に神秘の力を感じるところに要点がある

ホッサマグナ・ミュージアムに展示されている縄文女神の土偶。洞窟の女神は殺されることで豊穣の女神として再生した。

いまから70-80年ほど前の宮沢賢治の時代、大正から昭和初期のころの、都会から遠く離れてなかば自給自足的な暮らしをしている漁村を想像してみます。春になれば近所の野原でフキノトウやノビルが採れる。裏山には芋畑があって栗林がある。港の突堤で釣糸を垂れれば夕食のおかず程度の魚が釣れる。村人のなかには狩猟好きがいて冬にはイノシシを捕ってくる。肉をみんなに振るまう。縄文時代最盛期の人たちの暮らしぶりはそれに似ていたことでしょう。

(三内丸山遺跡では栗が栽培されていたという意見があります。焼畑農耕が行われた地域があるという意見もあります。水田稲作前の西日本に焼畑農耕が伝わっていたなら、相当にエキサイティングなことです。)

たとえば日本翡翠の産地、新潟県糸魚川市に行ったついでに、長者ヶ原遺跡や寺地遺跡などの縄文遺跡を訪ねると、復元してある竪穴式住居が貧相なので、縄文のご先祖は裸のサル程度の野蛮な日々を送っていたと考えがちですが、そうではなくて、ホームスティしてもさほど不便は感じずに済んだはずです。

縄文ピープルの暮らしは、旱魃や大雨、台風の被害がなければ、1日3-4時間働く程度で食うに困らず生活は安楽だった。けれど冬を越せないほどに木の実が集まらないと、とたんに飢餓の心配をしなくてはならなかった。山の幸・海の幸が十分に得られること、家族が病気やケガをしないこと、子供が順調に育つことが、何にもまして大切でした。

だから何をするに際しても見えない力に守ってもらうことが大事になって、ありとあらゆることに呪術が先行しました。自然の慈愛ときまぐれな暴虐さを肌身に染みて知っていた彼らにとって、死んで向こう側へといってしまった先祖は、幼児に対する母親のように自分たちを守護してくれる存在だったようです。

「縄文ミステリー」というとすぐさま連想されてくる石棒や妊婦を連想させる土偶、北陸の火炎土器や八ヶ岳山麓の顔付き土器、地面に建てられた巨木、ストーンサークル、などなどは、すべてが呪術のためにあって、向こう側に属するパワーをこちら側に招いたり、邪悪な要素をプロテクトするためでした。

たとえば棒状に石を磨いて先端に膨らみを持たせた石棒は男性器を模したとされていますが、性器を拝んで多産を願ったなどという素朴な解釈をすると、呪術の本質を見誤ってしまいます。

石棒はインドへ行けば、いまでもシヴァ神そのものとして崇拝されています。神像などの具象物よりも、抽象的なシンボルのほうがパワーは純粋で強いという形而上学的感性にあって、屹立した男性器に内在するパワーは宇宙の本質を表象しています。

性的に興奮したときの、ものぐるおしい感覚に注視するなら、その得体のしれなさは向こう側に属していることがわかります。そこにあるパワーのエッセンスはヒンドゥー教シヴァ派の教えでは、宇宙を輪廻させていく力そのものとされています。

われらが縄文のご先祖はそこまで哲学的ではなかったでしょうが、それでも万物を育む神秘的なパワーを性的に興奮した身体感覚のうちに嗅ぎとったことでしょう。田に水を引くように向こう側のパワーをこちら側に引き寄せることを願って、石棒は崇拝されました。

それは家のなかの囲炉裏の近くに置かれたし、ストーンサークルなど石組み遺構の要(かなめ)となりました。石棒はミニチュアの宇宙樹と解釈することもできて、同様のシンボルの系統のなかに翡翠大珠を含むこともできそうな気がしています。

以来こうした象徴物・物実(ものざね)を介して彼岸に属する神秘的パワーをこちら側の日常性へと導き入れたい願望は、精神世界の底流となっていて、こんにちのパワストーン・ブームに至るまで、途絶えることなくつづいています。

[8]縄文のご先祖は女神殺しの儀式を行っていた

石棒が男性象徴であるのに対して、土偶には女性像、それも妊婦姿が多い。縄文遺跡から出土する土偶の大部分は、儀式にさいして壊されなければならなかったとかで、出土状況から推察するに、縄文のご先祖は女神を殺して、遺体を村のあちこちにばらまくことをよしとしていたそうです。

縄文時代中期の山梨県釈迦堂遺跡からは1000体以上もの土偶が発掘されています。それらははなからバラバラにしやすいように作られていて、儀式がクライマックスに達するとシャーマンによって壊されたといいます。こういうことを知ったときには相当にショックで、なんで女神を殺す必要があったのか、納得できませんでした。

縄文時代の土偶や神話・伝説をテーマにした本には、この女神殺しはたいがいポリネシアとかミクロネシア起源のハイヌウェレ神話との関連が書かれています。

「オホゲツヒメやウケモチの神話は、ドイツの民族学者だったイェンゼンによって『ハイヌウェレ型神話』と命名された、農作物起源神話の異伝で、この型の神話は、もとは熱帯で芋や果樹を原始的なやり方で栽培する、イェンゼンのいわゆる『古栽培民』のあいだで、それらの作物の起源神話として発生したと考えられる。そして古栽培民のあいだでは一般にハイヌウェレ型神話は、農作物の起源神話であると同時に、死の起源神話でもあることが、イェンゼンによって明らかにされている。」
p186(『縄文の神話』吉田敦彦、青土社、1987)

この神話は、色々な宝物を排せつ物として身体から出す少女が、村人に気味悪がられて殺されてしまう。父親が彼女の遺体をバラバラにして村のあちこちに埋めると、そこからさまざまな種類のイモが発生した、というのが骨格になっています。

『古事記』ではスサノウがオオゲツヒメという食物神を殺すと遺体から稲・粟・豆・蚕などが生えるとされ、『日本書記』ではツキヨミが女神ウケモチを殺すと、同様にして遺体から五穀などが発生するとされています。
(日本神話はなぜこんなことになってしまったのか、『古事記』と『日本書紀』との両刀遣いなので、この繁雑さにいつも悩まさせられています。)

日本列島へのハイヌウェレ型神話の伝搬は、江南の地を経由したのではないかといわれています。縄文中期以降の儀式による土偶の破壊、女神殺しは、原始的な焼畑農耕やイモの栽培があったことが確認されると、いっそう都合がいいのですが、いまのところ縄文農耕はあった気配が濃厚らしくても、考古学界がこぞってその存在を認めるに至っていません。

それにしてもなぜ、女神は殺されねばならず、穀物や蚕は女神の遺体から発生しなくてはならなかったのでしょう。人間に親切な女神であるなら稲穂をランチボックスに入れるなどして届けてくれてもいいではないか、英雄神に穀物が生える島を教えてもいいではないか、とこの問題に触れるごとに思っていました。

[9]洞窟の女神は殺されて地母神として再生した

縄文の女神はなぜ殺されなければならなかったのか? なぜ遺体をバラバラにされて村のあちこちにまき散らされなくてはならなかったのか? つい最近ことの道理に気付いたのですが、いまでは、焼き畑農耕や原初的なイモの栽培がなくても、クリやドングリの豊作を願う儀式として女神殺しはあっても不自然でなかったと思っています。(自分としては思想的躍進といったところか。)

縄文のご先祖はナウマンゾウやオオツノシカ、バイソンを狩った旧石器人の末裔であり、旧石器時代から縄文時代への移行に人種的な断絶はなかった模様です。ということは原始の狩猟民の神話が、森の木の実の採集に食糧の比重を移した人たちの神話へと発展・変化していったと考えられます。

3万年ほど前あたりからヨーロッパで洞窟絵画を残したクロマニヨン人は、バイソンやウマの祖先などを狩って暮らしていました。狩りの獲物は原初の女神・洞窟の女神の息子と考えられていたといいます。クロマニヨン人は獲物の肉と皮を受け取って、魂が宿る部位の骨・頭蓋骨は女神に返しました。洞窟の女神は驚くほどに多産・好色だったのです。日本列島の旧石器人も似たような感性だったのではないでしょうか?

洞窟の女神が木の実や穀物・イモを発生させる女神へと変貌していくのですが、クリやら粟(あわ)・稗(ひえ)といった細かくてポロポロとした穀物は、獣たちの母親である原初の女神が生むはずがない。それらは彼女の垢だったり、汗・涙・排泄物、もしくは吐瀉物のようなものでした。

洞窟の女神が木の実やイモ類を含む穀物の女神に変じるためには、殺されて、身体をバラバラにされ、大地に埋められて大地とひとつにされなければなりませんでした。そうされることで彼女は、大地の女神・地母神へと変身できた。カエルやヘビは秋が深まると姿を隠し、草木が芽吹く春になると土のなかから姿を現わす。同じように殺された女神は年ごとに再生したのです。(大地の女神・地母神という概念は、人間たちが食糧を木の実や穀物の依存するようになってから生まれたのではないか?)

この時代にはゴミというものはなかったでしょうから、貝殻などの残り物は丁寧に積まれて女神のもとへと返されたことでしょう。貝塚は私たちが考えるようなごみ捨て場ではありませんでした。

幼児から少年期、青年期という自分の成長に重ねて、人間の歴史もそのようだったという無意識的な解釈の仕方があります。遠い過去には、何もかも満ち足りていた時代がある。そこへと帰りたい欲求が神々への祈願となりました。超古代の完全さへの憧憬が祭りの起源だったように思えます。

洞窟の女神は大地の女神になり、さらには太陽を生む金星の女神になり、農業が発展して都市が起こり、君主制政治が始まると、途端に男たちが強くなって、女神は男性神の妃 (きさき)に貶められていきました。

土偶を壊すことで神話を再現するという話に戻るなら、このあたりから演劇が誕生したような気分でいます。神話を再現して祈りを向こう側に届けるには、当然シャーマンにパワーが必要で、向こう側のパワーをこちら側に汲み出す道具・手段のひとつが翡翠製大珠だったと考えています。

[10]意識がブッとんでしまうほどに激しく

ロシア翡翠製大珠。あざやかな緑色はオンファサイトという翡翠類似鉱物の混入による。こういう大珠を持って縄文時代へとタイムスリップできるとするなら、たちまちの大呪術師になれそうな雰囲気だ

ショップでお客さんから受ける大珠についての質問で一番多いのが、「これを何に使っていたのか?」「どうやって使っていたのか?」といった類いの疑問です。

私たちも同じことを考え、前掲書『宝石の力・幸運は形に宿る』では、呪術的使用法の一例を物部(もののべ)氏の『旧事本紀(くじほんぎ)』に登場するニギハヤヒのフルの呪法に求めました。

ニギハヤヒが天下るに際して、アマテラスは十種の神宝を与えて、「もし痛むところがあれば、この十種の宝をして、ひと・ふた・み・よ・いつ・むつ・なな・や・ここのたり、と数えて、ふるえふるえゆらゆらとふるえ。そのようにすれば死者とて生き返ることだろう。これすなわちふるの呪文である」と伝えたそうです。

その他大珠と類似したパワーオブジェクトの活用法について、文化人類学の資料に答えを探したり、霊能力者のインスピレーションにヒントはないものかとインタビューしたりしましたが、最近ではこういう質問自体が間違っていたのではと疑ってもいます。

現代においても超弩級のダイアモンドが博物館に展示されると、それだけでニュースになります。高額さのみに眼をくらまされる人が多いようですが、ここには美しい石に魔力を感じた古代の感性の名残があります。

縄文時代の人たちは、大珠を振って病気治療をするなど、ヒーリング的な活用法を考えもしなかったかもしれません。大珠はそれがあるだけで凄かった。これをもったシャーマンは天与のパワーが何十倍にも増幅されることを実感できたでしょうし、触れる機会に恵まれた人たちは畏敬の念にうたれたことでしょう。

日本翡翠のように硬くて不変・不滅なものを、それを扱える特殊な力を備えた人間が、長い時間をかけて加工して、特別に意味深い形に仕上げる。砥石の上で石を幾千回となく刷る・こするという行為によって、石本来が持つ力に加えて、さらなる呪力が翡翠に付与されたに違いありません。キッパリと開けられた孔は聖眼となり、邪悪なものを退ける力に満ちていたことでしょう。

大珠や勾玉のような聖具・物実(ものざね)は、交易の品として遠方の地に渡ると、それを受け取った人々は、そこに異国の呪力を見たはずです。おうおうにして異国の呪力は、自分たちのそれより強烈で新鮮だったと思います。(文明開化とそれにつづく時代、戦後あたりまで、日本人にとって西欧の文明はまばゆく、いっしょに運ばれてきたキリスト教が旧来の仏教に比べて、おしゃれで強力だったのに似ています。)

超古代の人たち、私たちの遠いご先祖にとって日本翡翠大珠は、「これを何に使うのか?」という質問そのものが愚であるほどにくっきりと実在して、腰を抜かすほどにまばゆい魔力に満ちたパワー・オブジェクトだったと思えてきます。

現代の私たちに欠けているのは、ドッキリとするほど激しくモノに触れたり、意識がブッ飛んでしまうほどに激しいリアリティに満ちた体験であり、石に魅せられるということは、そうした思いと連動しているようです。