日本翡翠情報センター(糸魚川翡翠・ヒスイ海岸・翡翠勾玉・翡翠大珠・ひすい)

日本翡翠と勾玉、天然石の専門店《ザ・ストーンズ・バザール》が運営する日本翡翠専門のホームページです。『宮沢賢治と天然石』『癒しの宝石たち』『宝石の力』(ともに青弓社刊)の著者・北出幸男が編集・制作しています。(糸魚川翡翠・ヒスイ海岸・ヒスイ採集・翡翠勾玉)。

ANCIENT HISTORY

   『古事記』では八尺瓊勾玉から王朝の祖先がうまれる

勾玉ネックレス 日本神話のイオツノミスマルノタマはおもに管玉と日本翡翠勾玉で構成されていました。管玉は竹の生命力にあやかったものと思われます

日本翡翠勾玉 日本神話ではヤマト王朝の始祖となるアマテラスの御子神は日本翡翠の勾玉から生まれたと語られています

管玉 酸化鉄混じりの緑メノウの管玉。いまでこそ管玉の量産は造作もないことですが、古代には管玉1点づつの製作は容易ではありませんでした

[6]アマテラスは勾玉パワー頼みにスサノウに向かう

『古事記』の神話から勾玉の関連部分を追うと、まずは高天が原でスサノウを迎えるアマテラスの物語に出会います。日本神話は、諸外国の太陽神話と違って、太陽神と月神は、物質界がおおむね完成してから誕生します。アマテラスは天上界にいて天を祭る巫女といったふうで、彼女の誕生によって太陽が出現し、世界が明るくなったわけではありません。月神・ツキヨミは邪魔者扱いで、誕生して草々にアマテラスに嫌われ、表舞台から退けられてしまいます。イザナギとイザナミの国生みのあと、アマテラスとスサノオの対立は以下のように展開していきます。

黄泉の国に亡き妻イザナミを訪ねたイザナギは、見るなと言われたのに見てしまった妻の腐乱死体に恐れをなして死者のクニから脱出する。黄泉の国のトンネル出口は黄泉比良坂(よもつひらさか)といって出雲にある。なのになぜか彼は、日向に飛んで、橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あわきはら)という所で川に入って身を清める。

イザナギの禊(みそぎ)によって3貴子(アマテラス、スサノウ、ツキヨミ)が生まれる。単性生殖で母親不在のはずなのに、スサノウは母親恋しくて泣いてばかりいる。父親のイザナギが彼の追放を決意すると、スサノウは天上界の高天が原に行って姉のアマテラスに会ってから地下世界である根のクニに降りるという。

スサノウが天上界に通じる山道を登ると、まるで大軍団の攻撃であるかのように大地がどよめく。アマテラスはスサノウが高天が原を略奪しにくると思いこむ。アマテラスが弟を迎える様子が『古事記』には以下のように書かれています。

「すなわち髪をといて男髪に結い、左右に丸めた角髪(みずら)にも、頂(いただき)の髪にも、左右の手にも、それぞれ八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の五百津之御統珠 (五百津之美須麻流珠・いおつのみすまるのたま)を巻いて、背中には矢が千本入る矢筒を背負い、脇腹にも矢が五百本入る矢筒をつけ、左の手首には射撃用武具・鞆(とも)を付け、強弓を振りたて、足が太腿まで地面に没するほど強く大地を踏んで、雄たけびも勇ましく、スサノウに対峙した。」

猛り狂うアマテラスの様相は、端座して機(はた)を織る見目麗しい姿からは想像もできません。興奮のあまりに我をわすれてシヴァ神を踏みしだく暗黒の女神カーリーのようであり、人頭を連ねた首飾りをつけ、足を高くあげ、肉切り包丁を持って、怒りの形相もすざまじいチベットの女神ダキニのようでもあります。

[7]八尺瓊勾玉と五百津之御統(いおつのみすまる)

高天が原の境界、天の安川を挟んで両神は睨みあい、一触即発となるほどに緊張は高まるのですが、成り行きは後述することにして、当面問題となるのは、「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」や、「五百津之御統珠(いおつのみすまるのたま)」の解釈です。

八尺瓊勾玉の「八尺」は具体的な大きさの8尺=約240センチ(この時代の中国の物差しでは約200センチという)ではなく、聖数「8」を用いた大きさの表現で、立派なという意味。「八尺瓊」には弥栄(いやさか)に、つまり、いよいよ栄えるとか、ますます栄えるという意味もあります。

「瓊(あるいは丹)・ニ」はニニギノミコトの「ニ」、ヌナカワ姫の「ヌ」と同じで、宝石がきらめくさま、超自然的なパワーが輝くやくさまを指す古い時代の言葉。たとえば丹生(にゅう、ニが生れる)は具体的には辰砂という鉱物を指すのですが、辰砂の朱色こそ根源的なパワーの色と考えられていた古代においては、パワーが生まれる源の意味で丹生とよびました。「丹・たん」は赤との解釈もあるのですが、元来はパワーの意味です。丹田(たんでん)というとき、赤い色の塊が臍の下の方にあるわけではなく、「気」が凝集するパワー中枢を指します。

因みに翡翠は古代には「青丹(あおに)」と呼ばれていたらしく、『越後国風土記』には、「八坂丹(やさかに)は玉の名なり。玉の色青きをいふ。かれ、青八坂丹の玉といふ」とあります。奈良にかかる枕詞(まくらことば)「あおによし」は翡翠のように美しいという意味です。

現代科学は自然界には超自然的な要素がないことを前提に成立しています。だから歴史学者、言語学者たちはパワーという要素を認めたくない。そんなふうなので古代の精神世界に関する解釈は往々にして遠回しになったり、見当違いだったり、骨抜きになりやすいように思います。

「五百津之御統珠(いおつのみすまるのたま)」は、たくさんのビーズを連ねたネックレスやブレスレット状のものをいいます。ビーズが五百個用いられているわけではありません。「八尺瓊勾玉の五百津之御統珠」で立派な勾玉を加えてたくさんのビーズを連ねた飾り珠、という意味で、神話の時代と古代史の重なり具合から想像すると、ここでのビーズは丸玉やソロバン玉状のものではなく、管玉でした。

緑色凝灰岩などで作った数連の管玉のところどころに日本翡翠製勾玉を加えたネックレス状の髪飾りや腕飾り(ブレスレット)が、「八尺瓊勾玉の五百津之御統珠」です。アマテラスは外敵を迎え撃つのに自身の霊的パワーアップを必要としたのです。それには神秘的世界からの加護を得ることが肝要で、たくさんの立派な日本翡翠勾玉で、髪や腕を飾る必要がありました。アマテラスは最高神であっても、西欧の神話のような宇宙の創造者・主宰者ではないので、自身にパワーアップが必要なときは、勾玉など物実(ものざね・パワーオブジェクト)からパワーを得ようとするのです。

アマテラスは、宇宙が正しく巡るよう祈る天上界の巫女王で、卑弥呼と同じように、弥生時代から古墳時代にかけてのヒメヒコ制の巫女の役どころの投影となっています。地上の貴族社会の投影として天上界に都である高天が原が設定され、天皇を中心に貴族たちがそれぞれの役を納めていくように、神々もまた高天が原の繁栄に尽くすという構造です。以後、平安時代まで貴族たちは、天界のミニチュアとして振るまうのが勤めになります。貴族たちが着飾るほどに天界は栄え、貴族たちが好色であれば穀物の実りはうながされるというわけです。

神話はこのあと、スサノウとアマテラスの対決、スサノウの潔白を証明するための呪術合戦に移っていきます。ここでも勾玉は特別重要な道具となっていて、なんと、大和王朝の祖先は勾玉から生まれることになります。

[8]アマテラスとスサノウのウケヒは呪術合戦だった

私のクニを奪いにきたのか、と詰めよるアマテラスに対して、そんな気持は毛頭ありません、このさい、誓約(うけひ、万葉がなで宇気比とも書く)をして私の潔白さの証しにしたい、とスサノウは申しでます。

ウケヒの「ヒ」は魂・霊を意味します。魂の宿った男の子がヒコ、女の子がヒメ。ヒトはヒが止どまった存在、神籬(ひもろぎ)はもとは、ヒムロギで、ヒの室(むろ)となる木、つまり神が宿る木、神々の依り代(よりしろ)となります。ヒ(神意)を受ける占いがウケヒで、「もし受験に合格するのなら、これから私が投げる靴は上を向く」というように設問しました。ここでは投げられた靴が上を向くよう落下させるのに神意が働くことになります。

ウケヒは、自分の心を開いて神霊の意を汲む行為だから、本意を隠して口約束したり、神に誓うのよりもはるかに信頼度が高いとされていました。ウケヒは鹿の肩甲骨を焼いて吉凶を占う太占(ふとまに)と同じように、しばしば行われていたらしく、『日本書紀』では、神武東征の項に以下の例があります(『古事記』にこの記事はない)。

[九州から近畿へと進軍してきたカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)は、先住民の抵抗にあって、なかなか内つ国を征服できない。彼は配下に盗んでこさせた香具山の土で素焼きの皿や椀、瓶(かめ)を作り、丹生の川上にのぼって天神地祇をまつってウケヒした。]

[「私はいま、たくさんの素焼きの皿で水なしに飴をつくろう。もし飴ができれば、きっと戦いに勝利できるだろう」。すると飴はたやすくできた。また「お神酒(みき)瓶を丹生の川に沈めて、もし魚が大小となく全部酔って流れるのなら、この土地を征服できるだろう」とウケヒして酒瓶を川に沈めた。すると魚がみな浮き上がった。]

ウケヒには呪術的な背景が濃厚で、気安く解説できません。上の例では敵の領地から土を取ってくること、その土で作る素焼きの器、飴や酒瓶すべてに象徴的な意味があって、これらの意味を解かないと、なぜこうしたテーマがウケヒに選ばれたのかが理解できないのです。

アマテラスとスサノウのウケヒは、互いの物実(ものざね、パワーオブジェクト)を相手にゆだねて、そこから化生してくる子供たちの性別で正否を問うというものでした。 『日本書紀』には解釈に諸説あり、『古事記』では、スサノウが女子を生めばアマテラスへの敵意はない、という設問だったことがわかる仕組みになっています。スサノウの剣を女神が口に含んだり、アマテラスの玉を男神が噛んだりする両者のウケヒは、象徴的にも風景的にも相当に官能的で、夫婦神のまぐあいのように見えます。そうしてよく知られているように、アマテラスがスサノウから借り受けた十拳剣(とつかのつるぎ)からは、3柱の女神が、アマテラスがスサノウにゆだねた5本の「八尺瓊勾玉の五百津之御統珠」からは5柱の男神が誕生します。

[9]ウケヒから生まれた5柱の男神と3柱の女神

スサノウの十拳剣から生れた女神は航海の守護者・宗像三尊として知られることになる女神たちで、それぞれに名前を、タギリヒメ(多紀里比売命、別名・奥津島比売命)、イチキシマヒメ(市杵島比売命、別名・狭依比売命)、タギツヒメ(多岐都比売命)といいます。

彼女たちはスサノウの娘であるがゆえに、天上界に居場所がなかったので、生れてすぐ地上界に降ろされて海の女神になりました。のちにタギリヒメはオオクニヌシ(大国主命)の妃となり、イチキシマヒメは弁才天に習合していきます。弁才天はインドの神話的川の女神で、水音をたてて流れる川の様相から音楽の女神となり、川が穀物を育てることから豊穣の女神、現世利益の女神となりました。神仏習合によって水に関連した日本の女神たち、分水嶺のミクマリ、川の女神であるミズハノメ、津(港)の女神たちはみんな弁才天と同一とみなされていきました。

『西海道風土記』の逸文には「宗像三神が崎門(さきと)に天降りされたとき、青丹勾玉を奥津宮に置き、紫の勾玉を中津宮に置き、大きな鏡を辺津宮に置いて、これら三つの御印をもって、それぞれタギリヒメ、タギツヒメ、イチキシマヒメの神体とされた」とあるといいます。オオクニヌシに関連するタギリヒメのご神体は日本翡翠の勾玉、タギツヒメのご神体の紫の勾玉はアメシスト(紫水晶)なんでしょう。勾玉は神々が宿る依り代 (よりしろ)になると考えられていました。

アマテラスの5個の「八尺瓊勾玉」から生れた男神は、①アメノオシホミミ(天之忍穂耳命)、②アメノホヒ(天之菩卑能命)、③アマツヒコネ(天津日子根命)、④イクツヒコネ(活津日子根命)、⑤クマノクスビ(熊野久須毘命)の5柱。このうちのアメノオシホミミはアマテラスに地上を平定するよう指名されるが、なんのかんのと固辞して、自分の息子ニニギを降ろすことになります。ニニギ(瓊瓊杵尊)は光輝くパワーの表現「ニ」が二つ重なってまばゆいばかりの名前となっています。

アメノホヒはアマテラスなど天上国家による葦原中津国、または豊葦原之瑞穂国、つまりは日本列島征服計画に基づいて地上の偵察を任されるが、オオクニヌシに敬服して、3年経っても帰らない。結局彼はオオクニヌシを祭る司祭者になり、子孫は出雲の国造になります。アマツヒコネは、山城や茨木などの国造の始祖とされています。

通説通り『古事記』は天皇家の内輪の書であり、『日本書紀』は国の歴史書であるとするなら、前者は王家一族が家臣の出自を確認するための教科書であり、後者は貴族それぞれの出自を公表していることになります。出自と血統、血筋がなによりも大事な時代だったから、貴族たちにとっては朝廷内での関係はもとより、近所付きあいするにも、相手の氏素性を知っておくことは命に関わるほど大切なことでした。

勾玉から生れたアメノオシホミミ(天之忍穂耳命)が、タカギノ神(高木神・高御産巣日神)の娘を娶って生れた二柱の息子の弟のほうがヒコホノニニギ(瓊瓊杵尊)で、彼の代になって舞台は地上世界に移ります。

けれどその前に『古事記』ではアマテラスの岩戸隠れ、スサノウの追放と大蛇退治、などが展開されます。オオクニヌシの恋物語にゆきつくのは先の長い話となります。

[10]アマテラスの岩戸隠れと鏡・勾玉の役割

アマテラスはスサノウとのウケヒに敗北した。貴族社会に乱入した野盗のようなスサノウは、正義は我の側にあるといわんばかりの傍若無人な振るまい。アマテラスは何一つ諫めることができず、心身は衰弱していくばかり、ついには岩戸に隠れてしまいます。この岩戸は石の引き戸のある横穴式古墳をモデルにしたといわれていて、死と再生を象徴しています。

アマテラスが天の岩屋に隠れてしまうと、高天原(たかまがはら)も芦原中津国(あしはらなかつくに)も真っ暗になった。太陽は昇らず、常夜(とこやみ)の日々がつづいた。あちこちに響く神々の怒声は夏の山野のブヨのようにうるさく、あらゆる災いがいっせいにおきました。

みんなが困り果てた。八百万(やおよろず)の神たちは天の安の河原に集って、タカミムスヒの子オモイカネを参謀に善後策を講じた。すなわち、イシコリドメ命が鏡を作った。タマノオヤ命は八尺瓊勾玉を幾つもつけた五百津之御統珠(いおつのみすまるのたま)を作った。次にアメノコヤネ命とフトダマ命をよんで、天の香久山の雄鹿の肩甲骨を抜き取り、それを樺桜(かにわざくら・白樺か?)の枝で焼いて天の意志を占った。そうしておいて、天の香久山のたくさんの賢木(さかき・榊)を根こそぎ抜いて、上の枝に八尺瓊勾玉の五百津之御統珠を取りつけ、中ほどの枝には八咫(やた)鏡を飾り、下の枝には楮 (こうぞ)で作ったの白い布と、麻から作った青味のある布を付けたお飾り「太御幣(ふとみてぐら)」を作った。

フトダマ命は天の岩屋戸の正面に立って、この太御幣を捧げ持った。アメノコヤネ命が祝詞をとなえてアマテラスを褒めそやし、アメノタジカラオ命が石戸のそばに隠れて立った。それから、夜明けを告げる常世(とこよ)の長鳴鳥を集めて鳴かせた。

アメノウズメ命は日陰蔓(ひかげのかずら)の蔓をたすきにかけ、定家葛(まさきのかずら)で髪を縛って、笹の葉をたばねて手に持ち、岩戸の前で伏せた桶に乗り、足踏鳴らして踊った。踊るほどに神懸かりして衣服は乱れ、乳房を露出させ、腰布の紐をおし下げて性器をあらわにした。ここに八百万の神共いっせいに笑って高天が原がどよめいた。

これは書くのに長い話です。岩屋に隠れたアマテラスは太陽神のように描かれ、日食の描写だなどという人もいますが、呪術的解釈では、天を祭る者がいなくなったので世界から規律が失われたことの表現と思います。アマテラスは仏教が伝来し、大日如来と習合したことから太陽神になったようです。

ともかくもこうしてアマテラスは岩屋から出て高天原と葦原中国に昼が戻りました。そしてスサノウはといえば、「ここに八百万の神共にはかりて、スサノウに千位(ちくら)の置戸(おきど)をおわせ、またひげと手足の爪とを切り祓いせしめて、神やらいやらいき。」(千位の置戸はたくさんの台の上にのせた品物、罪をあがなうための代価)と、高天が原から追放されてしまいます。

ここに三種神器につながる大きくて立派な八尺瓊勾玉が登場します。この勾玉は、スサノウを迎え撃つべく戦闘準備を整えたアマテラスが身に付けた勾玉とは意味が異なります。霊的に自分をパワーアップするための呪具・守護石ではありません。祖霊の依り代であるがゆえに、祖先霊をまつる権利・祭祀権の象徴となる神具としての勾玉で、天を祭る「鏡」と地を祭る「玉」を得て、再生したアマテラスは地上世界の征服に意欲を燃やすことになります。

[11]祭祀用勾玉はフトミテグラ(太御幣)につけられた

大きな榊を根こそぎにして勾玉付きネックレスや鏡、辟邪(へきじゃ)の意味が強い麻などの布を飾りつけた「フトミテグラ(太御幣)」は、クリスマスツリーのようであるし、七夕の笹飾りのようでもあります。こうした飾りは世界樹木とか宇宙樹などの樹木信仰と霊界・天界が共存する文化ならどこにでもあります。

『古事記』を読むには自分を奈良時代に置いて、大昔の伝説を眺めるつもりで読むと、奈良時代以前の風習や信仰がほの見えてきます。この大昔の時代に神社はありませんでした。神社の出現は仏教が伝来して寺院が建てられるようになってからで、イワクラなどがある聖域の土地を浄め、今日の地鎮祭にみられるような、祭儀ごとに一度限りの斎場(さにわ)が作られました。

そうして、フトミテグラ(太御幣)が作られ、斎場では神職が捧げ持ち、祝詞(のりと)をとなえるのに合わせてゆすったと想像されています。そういう景色が心の奥の方に垣間見える気がします。

祝詞の言霊(ことだま)は振動する音となって神々の住む他界へと送信されたように、フトミテグラの供物も振動に変換されて他界に送られました。神社ができて神々は持ち家に定住するようになりましたが、それ以前の時代では神々は招かれることで降臨しました。巫女に憑霊して託宣し、審神者(さにわ)が神託を解読しました。

古墳時代には滑石や蝋石などの柔らかい石でつくった鏡・剣・勾玉などの稚拙な石製模造品や、同じく滑石などで作った子持ち勾玉が祭祀遺跡から出土します。これらの石製模造品はフトミテグラの飾りとして用いられたようです。

『日本書紀』を読むとフトミテグラと同じ装置を、地方の豪族が恭順する証しとして、天皇に捧げる記事に出会います。『古事記』や『日本書紀』が製作された奈良時代初期には、すでに勾玉の効力は忘れられていました。人々は勾玉の威力について覚えていません。しかし先祖帰りした私たちの眼には、これらの記事から、勾玉がパワーアップのための物実(ものざね・パワーオブジェクト)であるというのとは別の、神器としての姿がみえてくるし、三種の神器の意味もわかってきます。

[12]フトミテグラは天皇にも捧げられた

『古事記』『日本書紀』にみる古い時代の天皇の年代記は、雄略天皇あたりまでは、王朝の開闢にあたって、最初に土地の神の祟(たた)りを解く。祖先神を丁寧に祭って国が栄える。ついで東や西の蛮族を従える。そうして朝鮮半島に出兵して極東のミニ中華(中央が華で四方は野蛮という思想)になる、というような構図になっています。

伝説の英雄・日本武尊(やまとたける・倭建命)前後の時代は、南に熊襲を、北に蝦夷を征伐して、大和朝廷の支配権の拡大をはかった時代でした。

「日本武尊の父・景行天皇が熊襲征伐にでかけたおり、周芳(すわ・山口県佐波)の南方で首長国を治めていた神夏磯媛(かみなつそひめ)という女性首長が、天皇の来訪を聞いて、磯津山(しつのやま)の賢木(さかき)を抜きとり、上の枝に八握剣をかけ、中枝に八咫鏡をかけ、下枝に八尺瓊をかけ、白旗を船の舳先にたてて、天皇の使者を出迎えた。すぐにも帰順しますから、兵を送らないでください、と申し出た」というようなことが『日本書紀』に出ています。

同じく『日本書紀』の仲哀天皇の項には、彼は日本武尊の第二子で、神功皇后の夫、応神天皇の父ですが、景行天皇同様熊襲征伐にでかけたおり、土地の豪族から「太御幣(ふとみてぐら)」を贈られた記事があります。

[(仲哀天皇の九州侵攻に際して)筑紫の岡県主(おかのあがたぬし)の先祖の熊鰐(わに)が、大きな賢木(さかき)を根こぎにして、上枝に白銅鏡(ますみのかがみ)をかけ、中枝には十握剣(とつかのつるぎ)をかけ、下枝に八尺瓊をかけて、周芳の沙麼(さば・山口県佐波)にお迎えした。……また筑紫の伊都県主の先祖、五十迹手(いとて・セキ)が天皇がおいでになるのを聞いて、大きな賢木を根こぎにして、船の舳臚(ともへ)に立て、上枝には八尺瓊をかけ、中枝には白銅鏡をかけ、下枝には十握剣をかけ、穴門の引島(ひこしま・彦島)にお迎えした。]

ここには岩屋に隠れたアマテラスに捧げたのと同じミテグラが登場します。十握剣が加わったのは、皇位継承の品、三種神器に剣が加わった時代の影響で、アマテラスが岩屋に隠れたとき、神話伝説上では神宝の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を所持していなかったことによります。現代の神職が祝詞を唱えながら神前で振るうミテグラ(ごへい、ぬさ)は、これら古代の祈願法の名残のように見受けられます。

余談ですが、仲哀天皇の皇后、神功皇后は巫女的能力の高い女性として描かれています。神懸かりして、家臣の武内宿禰が判読するということがありました。当時の軍事行動は女の霊力があてにされたこともあって、多くのケースで皇后や皇女が同伴しました。仲哀天皇の熊襲征伐には神功皇后もいっしょでした。

陣営でのある夜のこと、神降ろしの儀式が行われ、仲哀天皇の琴の音にいざなわれて神功皇后が神懸かりした。「熊襲を討つより新羅を攻めよ。そうすれば金銀財宝思いのままぞ」と託宣があった。仲哀天皇は耳を貸さなかった。海の向うを見たって海原があるばかり、この神はインチキだ。彼は言って琴をひくのを止めてしまった。神は怒り、「もとよりお前は天皇の器ではない、さっさと死んでしまえ」と告げた。武内宿禰は驚きおびえて、天皇に琴の演奏をつづけるよう勧めた。天皇はいやいや琴をひき始めるがすぐに音が途絶えた。宿禰が灯明を持って天皇の様子を伺うと、天皇はすでに息絶えていた。神の怒り・呪い・祟(たた)りは天皇にも及ぶという話が『古事記』にあります。『日本書紀』では同じ逸話は、もう1日だけ天皇の生命が長らえたことになっています。

[13]豪族たちは勾玉を差しだして降伏した

アメノウズメの舞踏に沸く神々の狂喜をアマテラスは不審に思います。自分が不在の高天原は悪霊たちで荒れてみんなが困っているはず、なのになぜかくも楽しげなのか? 岩戸の内側からアメノウズメに訊くと、ウズメはアマテラス様より偉大な神さまをお出迎えして、みんなが喜んでいるのです、と答えます。不安にかられたアマテラスが岩戸をわずかに開く、鏡が彼女の姿を捕らえる。すかさず、アメノタジカラオがアマテラスの手をとって外に迎える。フトダマ命(みこと)がアマテラスの背後に注連縄(しめなわ)をはって、彼女の後退を拒む。こうしてアマテラスは復活し、高天原に平安な日々が戻りました。しかし、この解釈では、鏡にのみ主眼が置かれて、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は忘れられています。

前述したように、景行天皇や仲哀天皇の熊襲征伐の記事を見るなら、「フトミテグラ (太御幣)」は、捧げる相手への恭順の意を示す様式化された証しだったことがわかります。国津神を祖霊と仰ぐ地方の豪族にとっては勾玉を差しだすことは祭祀権の譲渡を意味しました。これからは自分たち独自の祭り事をやめて朝廷の宗教に従うことの表明でした。鏡は天神への従属、政治的な降伏を意味しました。熊襲の頭領たちが差しだした剣は軍事的な全面降伏を象徴したのです。

「地にあるがごとくに天があった」時代は、天皇に対してある豪族が降伏するということは、神々の世界でも豪族の守護神・祖霊が、天皇家の祖先で守護神であるアマテラスに従属するということでした。地にあって天皇にミテグラを捧げる行為と、天にあって神々がアマテラスにミテグラを捧げる行為は、同一事象において、天地が共鳴しあう儀礼でした。これが三種神器の考え方に継承されていきます。