日本翡翠情報センター(糸魚川翡翠・ヒスイ海岸・翡翠勾玉・翡翠大珠・ひすい)

日本翡翠と勾玉、天然石の専門店《ザ・ストーンズ・バザール》が運営する日本翡翠専門のホームページです。『宮沢賢治と天然石』『癒しの宝石たち』『宝石の力』(ともに青弓社刊)の著者・北出幸男が編集・制作しています。(糸魚川翡翠・ヒスイ海岸・ヒスイ採集・翡翠勾玉)。

ANCIENT HISTORY

一体何が起きたのか? 奈良時代に忽然と勾玉が消滅した

『古事記』で語られるアマテラスと勾玉の物語は古墳時代の勾玉への思い入れがもとになっています。アマテラスの岩屋隠れは洞窟ではなく横穴式墳墓からの再誕を物語っているともいわれています。古墳時代中期には日本翡翠勾玉は品薄となったらしく、ジャスパー・メノウ・水晶で勾玉がさかんに作られるようになります。それが古墳時代後期になると勾玉の流行は衰退し、仏教の伝来、中国文化の移入によって、ますます衰微し、ついにはすっかりと忘れられていきます。勾玉文化の消滅は古代的自我の消失と轡を並べているようです。(現代になっての勾玉の再発見は、古代的自我の再発見とこれまた歩を揃えているようです。)

勾玉の消滅について10数年間考えてきました。流行はマインドウイルスによって発現し、流行の終焉もまたそれによる伝染のようです。

   大和王朝は巨大墳墓築造とともに始まる

『沖ノ島展』図録 昭和52年(1976)に出光美術館で開催された『宗像・沖ノ島展』の図録。玄海灘に位置する沖ノ島はおもに古墳時代、朝鮮半島への航海の無事を祈った祭祀遺跡があることで名高い。

滑石製模造品 『宗像・沖ノ島展』の図録の表紙写真は、古墳時代に量産された滑石製模造品。勾玉・鏡・剣・人・船・鳥などを模したこれら形代(かたしろ)は神々への供物で、儀式ごとに使い捨てにされた。

『古代の装身具・玉』図録表紙 1991年に茨城県土浦市立博物館で開催された展覧会『古代の装身具・玉』展の図録。表紙写真は朝鮮半島の古墳から出土した勾玉付きの王冠。飾られた勾玉は日本翡翠製品と考えられている

貝輪型宝器 『古代の装身具・玉』展の図録から、おもに緑色凝灰岩を使って貝輪を模した碧玉製腕輪。形状によって鍬形石・車輪石・石釧などとよばれる。古墳時代前期には宝器とされていたようだ

図録表紙『北陸の玉』 1994年に福井県立博物館で開催された『北陸の玉・古代のアクセサリー』展の図録。日本の玉の研究には貴重な一冊。北陸が玉製品のメッカだったことには錬金術的・呪術的な意味があったようでもある。

ビーズと勾玉のネックレス 『北陸の玉・古代のアクセサリー』展の図録から。ガラスビーズや緑色凝灰岩製管玉、勾玉などを組合わせて作ったネックレスの出土品

貝輪型宝器 『北陸の玉・古代のアクセサリー』展の図録から。貝輪は南洋の貝殻を輪切りにした腕輪。貝輪を模した天然石製品は古墳への副葬品としてのみ使用された。葬儀用贈答品だったかもしれない

管玉 『北陸の玉・古代のアクセサリー』展の図録から。弥生古墳時代にはビーズは丸玉ではなく管玉(チューブビーズ)が主役だった。葦の生命力をとりこむよう作られたものであるらしい。

[1]古墳時代はくっきりと三分割できる

紀元3世紀の中頃か後半、魏誌・倭人伝に記された卑弥呼とほぼ同じ時代、現在の奈良県桜井市、奈良盆地の東南部、三輪山の山麓に、後世に箸墓古墳とか箸中山古墳とよばれることになる全長約280mの巨大な前方後円墳が築造されて、時代区分は古墳時代へと移っていきます。

近畿地方を拠点に大和王朝が始まった時代です。勾玉文化が全盛となる時代で、男や女の胸を飾り、大王(天皇)や豪族の墓に副葬され、神々への供物として儀式に使われて、勾玉なくして世に平安はないといった勢いになっていきます。

古墳時代は巨大墳墓を築いて大王(天皇)や豪族たちの亡骸(なきがら)を厚葬した時代です。大和朝廷による国家統一がすすみ、経済的にも上り調子、海外では朝鮮半島の覇権を新羅や高句麗、百済と競いあいました。

時代区分を3世紀後半から4世紀を初期古墳時代、5世紀を中期古墳時代、6-7世紀を後期古墳時代と、おおまかに分けます。中期古墳時代が勾玉文化の絶頂期にあたり、後期古墳時代には勾玉の愛用は衰退し、7世紀後半の天武(631?-676)・持統天皇(645-702)の時代に衰亡していきます。奈良時代になると勾玉は過去の遺物になってしまいます。

この原稿は、縄文時代に始まり、奈良時代にすっかりと忘れさられるまで、日本翡翠や水晶・メノウの勾玉が往古の人々、--つまるところ私たちのご先祖なのですが--にどのように愛玩されてきたかを、時代背景をながめつつ、レポートすることを目的にしています。以下しばらくは時代の変遷を追うことにします。

古墳時代の3つの区分はエポック・メーキングな天皇にあてはめることができて、初期は崇神天皇(神を崇拝した天皇)に始まり、中期は応神天皇(神託に応じて現れた天皇)、後期は継体天皇(王朝の体面を継続した天皇)が起点になります。

ひところテレビ・新聞では皇位継承問題にからんで、「皇統の万世一系」が話題になりました。記紀(『古事記』と『日本書紀』)が説くようにおよそ2600年前の神武天皇以来、皇室の血筋は一度も途絶えることなくつづいてきたという説です。これに対して学問的には、考古学的な研究成果とも整合性の高い「大和王朝三交替説」というのに人気があります。

おおまかには、①神武(じんむ)天皇から8代の孝元(こうげん)天皇までは伝説の天皇であり、実在しなかったとして「欠史八代」とします。

②10代・崇神天皇が初期大和王朝を開いた天皇です。3世紀半ばあたりのことで、崇神王朝は列島の地歩固めに傾注しました。記紀から類推するに、神祭りに際して勾玉や鏡を七夕の笹飾りのように榊に飾ったようです。14代・仲哀天皇とその皇后・神功皇后までが、初期古墳時代に相当します。

③15代・応神天皇によって新規王朝が始まります。この天皇の出自は大陸の北のほうにあって、朝鮮半島を経由して渡来したとする説があります。4世紀末から5世紀にかけてのことで、応神天皇につづく天皇たちは、朝鮮半島での高句麗・新羅・百済との勢力争いに明け暮れました。5世紀は「倭の五王の時代」ともいわれています。勾玉については日本翡翠製品が大量に新羅などに輸出されました。古墳時代中期に相当し、古墳築造の舞台は大阪平野に移り、墳墓はいっそう巨大化していきます。副葬品には馬具や鉄製武器・武具が目立つようになります。

④「大和王朝三交替説」では、25代・武烈天皇によって応神以後の血筋は途絶え、6世紀の始めころ、継体天皇が新たな王朝を開いたとします。「皇統の万世一系説」では継体天皇は応神天皇5世の孫とされています。継体天皇の孫の推古天皇を経て天智・天武・持統天皇へと王朝はひきつがれていきます。継体天皇以降を古墳時代後期に分類します。この時代になると宗教観が変化して、前方後円墳など高塚式墳墓の規模が縮小していきます。埋葬の形式も横穴式石室へと変わっていきます。仏教伝来のせいもあって勾玉愛玩の風潮は衰退していきます。

奈良・平安朝より前の古代史は一般に馴染み薄いことがらですが、聖徳太子が継体天皇の曾孫であることを想起すると、古墳時代もいくらかは眼中に入ってくると思います。

「勾玉消滅」の項でより詳しく検討する予定ですが、母系社会に家父長制が接ぎ木された日本列島の古代社会では、新たな権力者は旧王朝に入り婿して体裁を整えれば大王の位を継承できました。その意味では、「大和王朝三交替説」は家父長的社会観から導きだされた歴史観で、母系風に眺めるなら、「皇統の万世一系説」もあながち間違いではないことになります。

[2]突然の超巨大墳墓出現にただ仰天する

古墳時代の始まり、箸墓墳墓の出現はエジプトのクフ王のピラミッドや、メキシコの古代遺跡ティオティワカンに比べてもひけをとらない、画期的な出来事でした。現代では古墳は雑木に覆われた小高い丘程度にしか見えません。しかし、高い建物といえば3、4階建ての櫓(やぐら)程度のものしかなかったところに、盛り土を固めて要所要所を河原の転石で葺いた、10階建てのビルの高さに相当する、巨大でまばゆい建造物が出現したのです。それはもうまるで異星からの巨大な宇宙船が着陸したかのような光景でした。

箸墓古墳の全長は約280メートル。徒歩で4-5分かかります。後円部の直径155メートル、高さ約29メートル。前方部の幅125メートル、高さ16メートル。雑な計算では、25坪の建売り住宅なら約400軒建つことになります。しかもこの墳墓は二重の掘りに囲まれ、内側の周濠は約10メートルの幅、内側と外側の掘りの間の堤は約15メートルの幅がありました。

墳丘の頂(いただき)には、特殊壺、特殊器台、円筒形埴輪などというひとかかえほどもある大きな焼きものが並べられていたと想像されています。墓の主の遺体は円墳の頂点から穴をうがって地中納められ、前方の台形のテラスで、王の霊を王位継承者に移す儀式が行われたことでしょう。

箸墓古墳のある纏向は初期大和王朝建設の土地との説が有力になっています。前述したように、崇神天皇を初代天皇とする説が有力視されています。

伝説では箸墓古墳は崇神天皇の叔母のヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)の墓とされています。この女性は大和の地のトトヒ・モモソ姫の意味で、トトヒは鳥が飛ぶ(舞う)様子、モモソは幾度も繰り返すの意味で、女性呪術師が鳥にふんして舞うことで神懸かりする様子を伝える名前という意見があります(『日本の神々』谷川健一、参照)。

『古事記』では三輪山の神・大物主と聖婚した巫女として描かれています。夫は夜毎に訪ねて未明には帰ってしまう。一度はお姿を拝見したいと懇願すると、それでは朝になったら櫛箱に入っていよう、と彼は応える。不審に思いつつも姫が櫛箱をあけると、小さな蛇が入っていた。仰天した姫は女性器を箸で突いで亡くなったとされています。この時代には箸はなかったし、女性器を破損しての死亡は異様で、性器への不可解な思い入れが記紀編纂の時代にあったようです。

崇神天皇を初期大和王朝の初代天皇とするなら、この天皇の時代に三輪のオオモノヌシが祟って疫病が流行し、民の大半が死亡したという記事もうなづけます。孫のホムツワケはオオクニヌシの祟りで成人しても話すことができず、出雲に詣でてやっと口がきけるようになったといいます。大和の新しい征服者となった崇神天皇や息子たちは、土地の神に受け入れてもらえず、祟りを受けざるをえなかったとういうことのようです。

また崇神天皇は初代の天皇にふさわしく、北陸・東海・西海・丹波4方面に四道将軍を派遣したり、出雲の神宝を奪うなど、征服地の拡大に努め、「初国知らしし天皇」と称えられました。伝承では、崇神天皇は山辺道勾岡上陵(やまべのみちのまがりのおかのえのみささぎ、奈良県天理市柳本町)に葬られたとされていますが、箸墓古墳を彼の陵墓とする意見もあります。

[3]列島に古墳築造熱が蔓延する

古墳時代の始まりは、謎にみちたマウンドビルダー一族がどこからか忽然とやってきて、巨大墳墓の建築に着手したように見えます。

後世に前方後円墳と命名されることになる超巨大な高塚式墳墓には、プロトタイプと想定できる弥生時代後期の幾つかの古墳があります。前方後円墳の先駆形は奈良県纏向石塚遺跡、円筒埴輪の前身は岡山県楯築(たてつき)遺跡など吉備地方の古墳に、また要所を石で葺くのは、山陰地方の四隅突出形墳墓に前例があげられます。それにしても箸墓墳墓の出現はまったく唐突で意表をつくものであり、最初から完成されていて、建築にためらいのないものでした。

箸墓古墳はカギ穴にカギを差し込むように、当時の支配者層・豪族たちの宗教的心情や、権勢を誇り、民の支配を確立し、経済的繁栄を築き、名誉と称賛を得たい欲求に、ぴったりとあてはまりました。箸墓墳墓築造の成功こそ、初期大和王朝の名を列島各地に知らしめ、以後2千年に及ぶ宗教国家運営の足場を固める要をなったといっても、言い過ぎではありません。

たちまちのうちに近畿から瀬戸内海、九州北部にかけて巨大な前方後円墳の建設ラッシュがはじまり、九州南部、中部、関東地方に広がっていきます。巨大墳墓築造ビジネスは初期大和王朝の主導のもとにフランチャイズされ、全国展開していったのです。

古墳時代の約400年間を通して、北海道や東北北部、南西諸島をのぞく日本列島の各地に、推定で10万基以上の墳墓が築かれ、そのうち前方後円墳は約4000基に達したとのことです。

前方後円墳の分布をもとに、初期大和王朝が勢力を拡大し、支配した土地にそれを造ったという考えは妥当ではありません。背景に、弥生時代末期の地方勢力の繁栄があったとするほうが理に適っています。北九州や南九州、吉備や中部など、それぞれの地域に小国の王権的存在が誕生していて、彼らが政治・経済・宗教的理由のもとに高塚式巨大墳墓の建造を歓迎したのです。

墳墓の建設ノウハウと葬儀にまつわる祭儀一式、副葬品の提供、王位継承儀礼をパックにして、地方権力に提供したがゆえに、初期大和王朝は列島の文化的統一へと足を踏みだせたと思われます。

ここに古墳時代中期に建造された最大の古墳についてのデータがあります。(『古墳とヤマト政権』白石太一郎、文春新書、1999、から)。

◆「最大の古墳は大阪府堺市の大仙陵古墳で仁徳天皇陵とされている。全長486m、高さ約35m。2~3重の濠の外域には前方後円墳・帆立貝式古墳・円墳・方墳などさまざまな形態の陪塚が、あたかも衛星のように主墳を取り囲む。こうした陪塚の営まれている外域をも含むと、その墓域全体は南北約10キロ、東西約8キロで、面積は80ヘクタールにもおよぶ。」p10

◆「大林組のプロジェクトチームが1985年に行なった、大仙陵古墳の建設にかかる工期と工費についての試算によると、今、これを古代の工法で造営するとすると、1日あたりピーク時で2000人、延べ680万7000人を動員して、15年8ヶ月の工期と796億円の工費を要するという。」

◆「このように巨大な墳丘をもつ古墳が、近畿中央部ばかりでなく山陽、山陰、関東からさらに南九州や東北地方を含む列島の各地に見られることは、大規模な古墳が王都に集中している新羅や高句麗の場合とは大きく異なる。現在確認されている範囲で、墳丘の長さが200メートルをこえる古墳は、これらはすべて前方後円墳であるが、列島の各地に35基もみられる。また墳丘長150メートル以上の古墳は72基で一基を除いてすべて前方後円墳である。さらに朝鮮半島最大の皇南大塚の墳丘長(120メートル)をこえるものは、おそらく130基を下らないと考えられる。」p12

ちなみにエジプトのクフ王のピラミッドは高さ約139m、底辺約230m。両者を比べるなら大仙陵古墳の全長486mは世界各地の古代遺跡のうちでも頭抜けて広大であることがわかります。486メートルという距離は徒歩で約7分間に相当します。

巨大高塚式墳墓の築造熱が膨らんでいった様子を眺めると、それは、自己顕示やら見栄という領分を越えて、極楽鳥の尾羽根が野放図に伸びていったような、どこやら狂気にとりつかれた定行進化論的結果であるようにも思えてきます。けれどなぜこうなったかの背景には、交換経済社会での経済成長というテーマや、古墳時代に権力者の間から育った近代的自我の発達といったテーマが横たわっているようにみえます。

[4]巨大墳墓築造で王たちは男をあげた

大仙陵古墳の建設試算の例のように巨大高塚式墳墓の建造は、完成までに長年月と多大な費用を要する建築プロジェクトだったことが重要でした。建設地に隣接して作業員など建設関係者の町が作られ、たくさんの人が長期にわたって集い、たくさんの物質が消費されていきました。昔も今も、貨幣があろうとなかろうと、人が動くところにモノが集い、モノが動くところに人が集って、人とモノが動けば、ビジネス・チャンスが創出され、経済は活性化します。

箸墓墳墓の築造によって纏向には吉備や北九州、北陸など各地から職人や交易商人が集い、大きな邑へと育っていったことが豪族間の話題になったことでしょう。

地域の首長が統合されて豪族が登場し、やがて君主政治が始まるまでの古代の権力者の心性として、自己顕示欲の強さ、名誉・評判・体面の重視といった要素を列記できます。要はみんなから尊敬され、いい評判を得て、権力を確立・維持するために、彼らは気前よくあることが大事でした。

交換経済の社会では富は流通することに意義があり、一極集中したら地域経済は停滞してしまいます。極端にはポトラッチのような財産を放出するシステムが必要だったし、それによって当事者は尊敬され、大物扱いされました。巨大墳墓の築造は中央と地域の権力者が体面を保ち、名誉を高め、恩を売ったり売られたりして豪族間の信頼を得るための流通システムとして、ちょうどいい具合に機能したと思われます。

加えて、この流行現象は、初期大和朝廷に都合がよかったことに、宗教的な世界観をひとつにして、交易圏を共有する首長連盟の誕生におおいに役立ちました。

古墳時代初期には前方後円墳の外観ができてから、円墳部分の中央に竪穴を掘って遺体を埋葬しました。縦に半裁した大きな丸太の内部をくりぬいた木棺に遺体を納めて、銅鏡や管玉、勾玉などの装飾品、貝輪を模倣した石製腕輪、鉄製農具などを副葬しました。その後、木棺の四方に割石・板石を積んで壁を作り、四壁の上に天井石を並べて棺を封鎖、粘土で厳重に被覆して棺を埋めるといった、死者が身動きとれないほどの厚葬ぶりです。

このように厳重な埋葬ぶりは、遺骸の保存というよりも、死者に生き返ってもらいたくなかった思いが強いように見受けられます。

日本列島では弥生時代から古墳時代にかけて、権力者たちの間で近代的自我が発達していった時期に相当します。精神の発達史から自我を眺めると、自我は自分が所有したものを奪われたり、失う恐れから発達し、妄想という衣装を着て肥大していきます。

着の身着のまま、堀っ建て小屋に住み、今日の食べ物の調達で精一杯という暮らしでは、「私」を大事に思い、「私」中心の世界観を構築する自我は発達していきません。付和雷同する羊のように生きて死んでいく人生です。ここでは、指導者が身近にいなくても、あるいは指導者が死んだあとでも、指導者の声を幻聴として聞いたという説があります。この能力が神々の声を聞く神託へと発展していったと考えられています。

自我が自己判断に重きをおくようになると、現代人がそうであるように、他人はもちろん身内の意見もうとましくなります。自分が望まないかぎり、神託、夢見などで祖先に指図されたくない。死者にはこのうえなくくっきりと死にきってもらいたい、そんな思いが、巨大墳墓建造を助長したのではないかと、疑っています。

弥生時代から古墳時代のかけての時期は、神懸かりした巫女や霊媒による神託を重視する政治(まつりごと)から、占い重視のまつりごとへと神々と人間の関係が移行する時期にあたり、やがて人の意思による法律にもとづいた政治へと変わっていきます。巨大墳墓の登場は、権威の象徴とか死者の再生という面からだけでは理解できない、多くのテーマを内在させています。

[5]朝鮮半島の覇権を望んだ倭国の王たち

記紀伝説では、日本武尊(やまとたけるのみこと)の第二子の14代天皇・仲哀天皇は、「新羅を攻めれば、金銀財宝思いのままよ」との、神託を無視したために、怒った神に呪殺されてしまいます。代わって神功皇后が新羅に遠征します。彼女は臨月でありながら腹に石を巻いて出産を遅らせて戦いに臨むみ、凱旋した後に生まれたのが応神天皇でした。応神天皇は後世、神功皇后との母子神として八幡宮に祭られます。

応神天皇あたりから中期古墳時代になり、朝鮮半島との外交、おもには新羅や高句麗との闘争によって国力をつけていく時代になります。後続の天皇たちは「倭の五王」として知られています。初期古墳時代は、箸墓古墳に始まり奈良盆地に大和王朝関係の前方後円墳が多数建設されましたが、4世紀末から5世紀にかけてのおよそ100年間の中期古墳時代には、王墓の建造地は大阪平野、河内が中心になって、墳墓はいっそう巨大化していきます。

大阪平野南部の古市古墳群(大阪府羽曳野市・藤井寺市)と百舌鳥古墳群(同堺市)がそれで、強大な権力者となった大王たちの威力を示す大型古墳がぞくぞくと築造されました。古市古墳群では、全長100m以上の古墳が16基を数え、約10km西の百舌古墳群とのふたつの古墳群には、それぞれ31基・23基の前方後円墳など100基を越える古墳が残されているそうです。

墓制も変わって木棺はすたれ、竪穴式石室に長持形石棺を埋葬するようになりますが、画期的なのは副葬品で、古墳時代前期には見られなかったきらびやかな馬具や甲胄(こうちゅう、よろいとかぶと)や主流となり、記紀に記された応神天皇につづく天皇たちの活躍ぶりをうらづけています。

この時代は東アジア情勢における日本の位置を把握しないと概要をつかめません。おおむね以下のように中国と朝鮮半島は激動の時代を迎えていました。朝鮮半島南部で採掘される鉄を手に入れるために大和王朝はこの騒動に参加せざるを得ず、騎馬戦を学ぶなど、中国・朝鮮半島的文化に染まっていきました。河内の巨大前方後円墳から出土する馬具などには、北ユーラシアで製作され、朝鮮半島を経由して伝えられた舶来の黄金製品が含まれています。

[6]波乱万丈だった古墳時代の東アジア

<1>卑弥呼と邪馬台国について触れた魏の歴史書『魏誌』の「倭人伝」以降、宋の歴史書が倭の五王について述べるまで、約150年間、弥生時代から古墳時代への過渡期の間、中国の古文献に日本列島関連の記事がないので、初期大和王朝の時代を指して「空白の4世紀」とか「謎の4世紀」とよんだりします。

<2>『三国志』の悪役、魏の曹操(そうそう、155-220 )亡き後しばらくして、265年に魏は曹氏から司馬氏に王朝を奪われ、晋(しん、西晋)になります。卑弥呼の跡を継いだ壱与が、日本翡翠の大きな勾玉をたくさんの真珠とともに朝貢したのはこの晋でした。248年、卑弥呼の跡を継いで13歳で邪馬台国の巫女王となった壱与(台与)は、266年、晋に朝貢したときは31歳になっていました。その後彼女がどういう人生を送ったかを記す文献はありません。邪馬台国と狗奴国との勝敗の行方もわかっていません。

<3>晋の2代目は暗愚な王で、無能ぶりがたたって、諸王を巻きこむ動乱へと発展し、「八王の乱」(291~306年)が起きます。諸王は中国北方や西方のモンゴル系・トルコ系・チベット系異民族、いわゆる五胡を傭兵として雇ったことから混乱に拍車がかかりました。傭兵たちは使役されるより自分が主人になったほうが実入りが多いことに気付いたのです。

<4>華北一帯は動乱につぐ動乱の時代となり、五胡十六国とひとまとめにされる非漢民族系の国ができては滅びていきました。316年には西晋も滅亡しました。

<5>華北の貴族官僚たちはこぞって江南に逃れ、318年に今の南京に、司馬氏の生き残りを擁立して晋王朝(東晋)を復活させました。

<6>朝鮮半島では漢王朝以来の重しがとれて、313年に高句麗によって中国の植民地・楽浪郡が滅ぼされ、346年には百済が独立、356年に新羅が建国されて、三巴の領土争奪戦が繰り広げられていきます。

<7>5世紀に入って華南では、420年に東晋の恭帝(きょうてい)から禅譲を受けた劉裕(りゅうゆう)という武人が宋王朝を創建しました。華南の王朝はこののち斉(せい)、梁(りょう)、陳と推移していきます。

<8>魏・呉・蜀の3国が分立した220年頃から、589年に隋によって南朝の陳が滅ぼされ、南北が統一されるまでの約360年間を魏晋南北朝時代といいます。江南の王朝の数が呉・東晋・宋・斉・梁・陳と6つあったので六朝時代ともよばれます。

<9>日本列島では、魏から宋までの間に邪馬台国が滅びて、奈良に大和王朝が誕生し、中国大陸や朝鮮半島にも例がないほど巨大な前方後円墳が多数つくられるようになりました。宋から隋までの歴史は、応神・仁徳・雄略天皇から継体天皇を経て聖徳太子の遣隋使の時代に相応します。

<10>朝鮮半島では、4世紀後半になると北の高句麗が南下して、半島南部の百済や新羅に侵攻します。百済は半島南端部の伽耶諸国とともに大和王朝を味方に引きいれて高句麗に対抗しようとします。鉄の供給を朝鮮半島に頼っていた大和王朝は、高句麗・新羅・百済の三国の争いに参戦せざるを得なくなります。

<11>大和王朝の大王(天皇)は、国内では近畿の葛城をはじめ、吉備や上毛野(かみつけの・今の群馬)、日向など地方の豪族と手を結び、対外的には宋に後ろ盾となってくれるよう願います。これが宋の歴史書『宋書倭国伝』に名前がのる倭の五王で、421年から478年まで、倭国王(大和朝廷の天皇)が5代にわたって宋に朝貢し、朝鮮半島での活動を正当化する将軍名の授与を要請しました。

<12>倭の五王の「讃・珍・済・興・武」は通説は「仁徳・反正・允恭・安康・雄略」の5天皇を指します。「讃を応神、珍を仁徳」にあてる説もあります。この時代に後述するように、翡翠勾玉はさかんに朝鮮半島に輸出されました。この時代の朝鮮半島と日本との関係について様々な説がありますが、日本の大王が朝鮮半島を支配する将軍の称号を、宋から与えてもらいたがったのは、まるっきりのはったりとも思えず、当時の王朝は戦争と交易の拠点を朝鮮半島南端に持ち、三国と対等に戦っていたようです。

[7]雄略から継体へ、強力天皇が王朝を導く

5世紀後半、雄略天皇の時代になると、天皇の権力が増大します。各地の豪族との連合のうえに成立していた大和王朝は、武力を誇示しての、政治・経済・宗教の3権の支配者へと脱皮していきます。以降、ひとつまたひとつと有力豪族を解体・壊滅させていって、天武天皇の時代に豪族が関与しない中央集権国家が誕生します。雄略天皇以降は豪族たちの首長連合が消滅した証しであるかのように、大王家以外の巨大墳墓は列島のどこにも作られなくなります。

気前のよさと面倒見のよさで子分たちの信頼を得た男が、親分になったとたんに冷淡な搾取者・支配者になるという構図を連想させます。

そのせいか、『日本書紀』に描かれた雄略天皇は、神官の長にあるまじき暴力好きな天皇で、疑い深く、ちょっとのことで怒り、身近な者たちを殺しまくる「はなはだ悪しくまします天皇なり」となっています。

雄略天皇の皇子で22代・清寧天皇のとき王朝の血筋は絶滅の危機におちいります。3代あとの25代・武烈天皇は冷酷非道な天皇、悪逆無道なソシオパス(社会的変質者)として著名ですが、この天皇のとき、朝廷近辺には血統を継ぐ者がいなくなってしまいました。雄略天皇が皇位継承のライバルを皆殺しにしたからといわれています。

それで探しだされたのが、応神天皇5世の孫とされる継体天皇( 450-531、在位507-531)です。彼は越前・近江の出身ですが、紆余曲折を経て、武烈天皇の妹・手白香(たしらか)皇女と結婚、従来の天皇家に入り婿することで、王統を継いでいきます。

王位継承はいつの時代も危うさを含んでいます。けれどとくに継体天皇の時代は、新来の天皇という足場の脆弱さを反映してか、大王になったときも、3人の王子が跡目を相続しようとしたときも、安泰ではすまなかった模様です。仮説ではクーデターが起きたとか、ふたつの王朝が並立したなどと説かれています。

古墳時代はここから後期に分類されるようになり、天皇家といえども大型古墳の築造は減っていきます。横穴式石室を持つ墳墓が築造されるようになります。祭祀の形態が変わり、朝鮮半島経営も思わしくなくなり、継体天皇の皇子で29代・欽明天皇のときには仏教が公伝して、巨大な墳墓を築いて権力を誇示した時代が終焉していきます。同時に神々(高位の祖霊)の世界とこちら側を結ぶよすがだった勾玉に重きが置かれなくなり、世は様変わりしていきます。

やがて渡来氏族ともいわれる蘇我氏が権勢をふるうようになり、ともかくも王朝は継続していきます。継体天皇の孫にあたる推古天皇がたち、曾孫の聖徳太子が摂政になります。推古天皇の夫で、聖徳太子の伯父にあたる敏達天皇の孫が大化の改新の天智天皇と、壬申の乱の天武天皇で、このふたりの天皇の時代に、古墳時代はおおむね終了し、中世的な立憲君主国家へと移っていきます。日本翡翠勾玉だけではなく、管玉も作られなくなり、翡翠そのものが歴史から忘れられていくのもこれらの天皇の時代です。

日本翡翠と勾玉の古代史をテーマにした特集なので、あまりわき道にそれるわけにもいかないのですが、倭の五王から継体天皇を経て、天智・天武天皇へと移っていく時代の天皇たちには、ミステリーを凌駕する奇妙奇天烈、戦々恐々とする逸話が多々あって、知らないでおくにはあまりに惜しいと思っています。