ANCIENT HISTORY

挿絵 卑弥呼の時代と前後して列島の日本海側には出雲、越(こし)などの古代首長国が栄えていた。彼らもたぶん渡来の民だったが古代史でそのことに触れられる機会は少ない。越の女神・奴奈川姫は川の女神であり漁民の女神、機織りの女神だったが、近年に翡翠が再発見されたことで翡翠の女神としてよみがえった。

神秘が一杯! 翡翠テーマの書籍の群れに眠れなくなる

『日本古玉器雑攷』(梅原末治、吉川弘文館、1971・昭和46年)
ページを繰るごとに展開される勾玉や玉(たま)の種類の多さには驚くばかり。まったくもって壮観である。考古学が進歩していなかった時代には伝世品と発掘品の区別もあいまいで、出土地または製作地も制作年代もはっきりしないものが多い。けれども獣形やら魚形、鳥形の飾り玉が日本列島で作られていたことに感激してしまう。

『考古学ライブラリー52・玉』(藤田富士夫、ニュー・サイエンス社、1989・平成元年)
おなじ天然石製品でも、日本人は中国製を「ぎょく」とよび、自国製を「たま」とよんできた。「たま」は「魂」に通じて祖霊や精霊の宿りとなった。見かけが地味な本なので書架に埋もれると再発掘が難しいが、古代日本の玉について中身の濃い内容となっている。

『北陸の玉・古代のアクセサリー』(福井県立博物館、1994・平成6年)
こういう本がめったやたらと好きなので気持ちの上では抱いて眠りたいほど。平成6年4-6月に福井県立博物館で開催された書名と同じタイトルの展覧会の図録。図版の中の緑色凝灰岩製の管玉に魅せられて、そのうちこれを復元しようと姫川で原石を拾ってきた。以来そのままになっている。

『季刊考古学5・装身の考古学』(雄山閣、1983・昭和58年)
日本列島の天然石文化はドーナツ状円盤の一端に切れ込みをいれたケツ状耳飾りに始まり、磨製石斧、ついで翡翠大珠へとつながっていく。これと平行して貝輪や銅釧(くしろ)など、いまもって使用目的や価値がよくわからないアクセサリー類がある。弥生時代以降の翡翠勾玉は大珠の文化が一端途絶えた後で出現した。こうした考古学の文献を読むと、いろいろなことを教えられる。

『季刊考古学89・縄文時代の玉文化』(雄山閣、2004・平成16年)
「縄文時代の玉文化」の特集号で、「玉文化社会の形成」「玉の類型編年」「玉文化の多様性」「玉文化の地域性」、などの記事が並んでいる。小型の玉斧は道具として制作されたものではなく、装飾品として作られたと推測されている。個人的には目下のところ、縄文から弥生への転換点で起きたであろう気候変動に伴なう文明の組み替えに興味があって、本書はこれを考えるのに欠かせない。

『季刊考古学94・弥生古墳時代の玉文化』(雄山閣、2006・平成18年)
「弥生古墳時代の玉文化」の特集号。「弥生時代の玉文化」「古墳時代の玉文化」「玉文化論」「アジア世界の玉」などのテーマの下に関連した論文が並んでいる。こういう特集号が出版されるのは考古学&天然石ファンとしてはとてもありがたい。

『第1回・翡翠と日本文化を考えるシンポジウム』(糸魚川市教育委員会編集、1986・昭和61年)
昭和61年9月に糸魚川市で開催された同市主催のシンポジュウムのレジュメ。表紙破損のため見開きページを紹介。日本産翡翠は戦前に再発見され、戦後に姫川の支流・小滝川の巨大原石群が国の天然記念物に指定されたことで世間に認知されるようになった。昭和61年は日本の景気がよかった時代で、この時期に翡翠シンポジウムが開催されたことには大きな意義があって、今日に至る翡翠ブームはここが原点になっている。

『第二回・翡翠と日本文化を考えるシンポジウム』(糸魚川市教育委員会編集、1988・昭和63年)
前回から1年置いて2年後の昭和63年9月に開催された糸魚川市主催の翡翠シンポジウム2回目のレジュメ。この3冊のレジュメは日本翡翠研究の金字塔のように見える。昨今のように不景気で、地方都市の活力が疲弊した時代には、とてもこのようなシンポジウムは開催できない。本当に開催しておいていただいてありがたかった。

『第三回・翡翠と日本文化を考えるシンポジウム』(糸魚川市教育委員会編集、1990・平成2年)
平成2年9月に糸魚川市主催で開催された3回目最後の翡翠シンポジウムのレジュメ。森浩一・木島勉・寺村光晴・茅原一也・土田孝雄、など、日本翡翠や北陸古代文化の研究家たちの原稿が並んでいる。

『古代翡翠文化の謎』(森浩一編、新人物往来社、1988・昭和63年)
上記『第1回・翡翠と日本文化を考えるシンポジウム』の講演記録を再構成した単行本。昨今のように本が売れない時代にはこうしたシンポジウムの単行本化も難しいので、この3冊は日本翡翠への理解を深めるうえでのよき時代の遺産といえよう。

『古代翡翠道の謎』(森浩一編、新人物往来社、1990・平成2年)
上記『第2回・翡翠と日本文化を考えるシンポジウム』の講演記録を再構成した単行本。ヌナカワヒメ伝説やフォッサマグナの誕生、翡翠の科学などもりだくさんの内容だが、個人的には中南米古代文明と翡翠の関係が興味深い。

『古代王権と玉の謎』(森浩一編、新人物往来社、1991・平成3年)
上記『第3回・翡翠と日本文化を考えるシンポジウム』の講演記録を再構成した単行本。翡翠の古代史は日本とアジアの関係を重視することでより鮮明なものになる。そういう考えが流行した時代背景もあって、翡翠シンポジウムの第3回目では、アジアのなかでの日本の位置が重視されている。

『玉とヒスイ・環日本海の交流をめぐって』(藤田富士夫、同朋舎出版、1992・平成4年)
主な内容は、第1章・日本列島のケツ状耳飾り文化、第2章・アジアに広がるケツ/ケツ状耳飾り文化、第3章・日本ヒスイ文化の特質、第4章・朝鮮半島の硬玉製勾玉、第5章・倭国で産する夜明珠、第6章・玉が語る日本海交流。

『日本の翡翠 その謎を探る』(寺村光晴、吉川弘文館、1995・平成7年)
主な内容は、1・謎のヒスイ、2・ヒスイの発見、3・ヒスイの女王、4・ヒスイのムラ、5・ヒスイの大珠、6・ヒスイ転変、7・ヒスイの工房、など10章にわけて、日本産翡翠が語られている。

『古代翡翠文化の謎を探る』(小林達雄編、学生社、2006・平成18年)
「ヒスイ文化フォーラム2003」の講演記録をもとに編集された本。帯には以下のようにある。古代ヒスイ文化はなぜ消えたか?/翡翠とは何か?/縄文時代の玉文化の展開/翡翠をめぐる生産と交易など、姿を消した謎のヒスイ文化の全貌を解き明かす。

『古代越後奴奈川姫伝説の謎』渡辺義一郎、山誌刊行会、1978・昭和53年)
ライター志望であった若者が、まるでヒスイの女神・奴奈川姫に招命されたかのように、全身全霊をあげて糸魚川市近辺に残る奴奈川姫伝承を収集・収録した貴重な記録。日本列島の水の女神の大部分がそうであるように奴奈川姫も弁才天と習合しているのが興味深い。

『古代の日本海文化』(藤田富士夫、中公新書、1990・平成2年)
サブタイトルは海人文化の伝統と交流。第1章・越と出雲との交流、第2章・日本海域の海人文化、第3章・日本海域の玉作り文化、第4章・潟湖は地域文化の拠点、第5章・内陸の日本海文化、など7章から構成されている。

『増補改訂 勾玉』(水野祐、学生社、1992・平成4年)
おもには出雲の玉造遺跡を話題にした筆者の懐古談のような風合い。出雲の古代攻玉遺跡や三種の神器、子持勾玉などについての考察がある。

『海・潟・日本人 日本海文明交流圏』(梅原猛・伊東俊太郎監修・講談社、1993・平成5年)
第1章・古代日本海文化と潟港、第2章・日本人と海、第3章・北の海からみた日本文化、第4章・日本海の変遷、第5章・日本海の古環境、からなっている。日本翡翠をテーマにした本ではないが、古代日本海側文化の特色を理解するのに役立つ。

『長者ヶ原遺跡・縄文時代北陸の玉作集落』(木島勉他、同成社、2007・平成19年)
縄文時代の翡翠文化発祥の地のひとつが新潟県糸魚川市の長者ヶ原遺跡で、考古学のなかった時代、このあたりの表土には磨製石斧などのかけらが大量に散乱していたので長者の住居の跡地=長者ヶ原の地名がついたらしい。いまは遺跡は整備され、近くにはホッサマグナ・ミュージアムが建っている。この一冊で長者ヶ原遺跡の全貌がわかる。

『祭祀考古学の研究』(大平茂、雄山閣、2008・平成20年)
子持ち勾玉の編年を考察した論文があって貴重。子持ち勾玉は古墳時代、5-6世紀の祭祀遺跡などから出土する。この時代には神社はなかった。神祭りはどのように行われていたかもわかっていない。子持ち勾玉は祭祀に際しての奉納の品と考えられている。

『奴奈川姫とヒスイ文化』(土田孝雄、奴奈川姫の郷をつくる会、2003・平成15年)
目次には「奴奈川姫とヒスイ文化 総集編」とある。筆者がこれまで取り組んできた奴奈川姫研究の総集編という意味であるらしい。奴奈川姫の実在を巡って糸魚川近辺の遺跡や神社が多数紹介されている。

『奴奈川姫賛歌』 土田孝雄、奴奈川姫の郷をつくる会、2009・平成21年)
サブタイトルに「久比岐の地に宿る古代浪漫の謎を解く」。主な構成は、第1章・奴奈川姫ってどんな姫?第2章・奴奈川姫の里ってどんなところ、第3章・奴奈川姫を祀る社とのご縁、など。

『奪われた三種の神器』渡辺大門、講談社現代新書、2009・平成21年)
三種の神器のひとつに勾玉が数えられているが、「ヤサカニノ勾玉」と名付けられたそれが、翡翠製品なのか出雲のジャスパーなのか、あるいは子持ち勾玉なのか、誰も知らない。皇居のどこかに保管されいるはずなのだが、写真が公開されたことは一度もない。平家の滅亡と三種の神器の行方など、おもしろい話がのっている。

『古代日本海文化・シンポジウム』(森浩一編、小学館、1983・昭和58年)
昭和58年から数年がかりで富山市で日本海文化を考えるシンポジウムが開催された。こういうシンポジウムのいいところは、ひとつのテーマを多面的に眺められることであり、継続されることでテーマが練られることにある。日本翡翠を古代史のなかに置くと、ことに日本海文化についていろいろなことが見えてくる。

『古代の日本海諸地域・シンポジウム』(森浩一編、小学館、1984・昭和59年)
日本海文化を考える富山シンポジウム2回目の講演記録で、テーマは「古代の日本海諸地域の古代文化と交流」。一般的な歴史書では古墳文化後期になると、大和王朝の盛衰やら王権の交替に話題が収斂していく。同じ時代の日本海側について知る機会は少ないので、こういう資料は貴重だ。

『東アジアと日本海文化・シンポジウム』(森浩一編、小学館、1984・昭和59年)
日本海文化を考える富山シンポジウム3回目の講演記録で、テーマは「東アジア世界と日本海文化」。アジアの歴史のなかに日本列島を置かないと日本の歴史は見えてこない。古代東アジアと日本、ことに日本海側地域との関係を知ることには新鮮な楽しみがある。

『古代日本海域の謎Ⅰ・住まいからみた人と神の生活』(森浩一編、新人物往来社、1989・平成元年)
日本海文化を考える富山シンポジウム5回目の講演記録で、住文化がテーマ。糸魚川の寺地遺跡の巨木遺構や出雲の伝説の巨大神殿などにみられるように、日本海側には縄文時代以来の巨木信仰があった。目次から想像するに、こうした巨木文化にも触れられているようだ。

『古代日本海域の謎Ⅱ・海からみた衣と装いの文化』(森浩一編、新人物往来社、1989・平成元年)
日本海文化を考える富山シンポジウム6回目の講演記録で、衣と装いの文化がテーマ。シベリアの衣服やアイヌ民族の装い、日本海地域の埴輪に表われた服装など、様々な意見が展開されている。奴奈川姫は黒姫と呼ばれていた。してみると彼女は雲南の少数民族のように黒づくめの衣服であったかもしれない。

『古事記成立考』(大和岩雄、大和書房、1997・平成9年)
『古事記』と『日本書紀』、10年と間を置かずになぜ奈良の朝廷は2種類の国書を必要としたか? 『日本書紀』の編者たちは『古事記』の内容を知っていて当然なのに、なぜそれを無視できたのか? その他たくさんの理由から『古事記』は後世に作られた偽書とする意見があった。『古事記』偽書説は超エキサイティングなテーマである。そうなると大国主命と奴奈川姫の恋物語はどうなってしまうんだろう?

『目の眼 2002年2月号』(里文出版)
古美術・骨董の専門の月刊誌。この号の特集は「勾玉の神秘・生命宿る古代装飾の美」。素晴らしく美しい丁字頭勾玉やものいいたげな子持ち勾玉が特集されている。旧家に伝世されたり、考古学の誕生と認知以前の時代の遺跡からの出土品は、いまも骨董品業界で売買されていることに驚いてしまう。

『目の眼 2011年5月号』(里文出版)
古美術・骨董の専門の月刊誌。2011年5月号の特集は「勾玉と石器・古代日本の石の造形」。翡翠大珠があり、メノウ勾玉があり、黒曜石のヤジリがある。磨製石斧の写真もあって、2、3個欲しくなってしまう。

「日本翡翠情報センター」の母体である《ザ・ストーンズ・バザール》(有限会社ザ・ストーンズ)には割合大きな資料室があって、ここから日本翡翠と古代史関連の書籍を抜きだしてきました。「日本翡翠の鉱物学」のページに記したように、これが日本翡翠と古代史に関連するすべての単行本というわけではありません。たまたま手元にある資料というだけのことです。これらの資料の収集には石ヤ仲間のN氏のご協力をいただいています。記してお礼もうしあげます。

これらの本を書庫から選びだして、撮影して、奥付を確認して、コメントを書いて、ホームページに掲載できるよう編集するのは結構大変な仕事でした。しかし、このホームページを「日本翡翠情報センター」などと名付けてしまったからには、これくらいのことはしなくちゃいけないと思うし、こんなことができる人はあまりいないだろうし、日本翡翠との関係を深めていこうとする人たちには、なにがしか役立つこともあると思います。

今日では、奈良時代以前の日本史を東アジアとの関係性のなかでみるとか、当時は太平洋側より日本海側が列島の表玄関だったという考え方は、ほぼ常識になっていますが、糸魚川市で最初のヒスイ・シンポジウムが開催されたころは、こうした考え方が流行しはじめた時期でした。日本翡翠についても、縄文時代には大珠が作られていた、弥生時代になると定形化された勾玉の制作が始まり、古墳時時代には大流行した。といった国内問題のみでとらえず、東アジアの一端の出来事と思いを定めると、われらのご先祖は列島の民であっただけはなく、アジアの民であったことがみえてきます。

古代史に関心を抱くということは、古代のロマンへの知的興味をかきたてるというだけではなく、私たちの心のうちなる古代をよみがえらせるということであり、そのように考えることで私たちの精神世界は深みを増し、心は元気づきます。教科書的に古代を縄文・弥生の野蛮な人たちの歴史というふうにはとらえないで、あなたやぼくの遠いご先祖の物語と考えるなら、古代は身近になり、それとともに日本翡翠はいっそう輝きを増します。