ANCIENT HISTORY
古墳時代は勾玉&天然石宝飾品の黄金期だった
[8]翡翠・水晶・碧玉製の膨大な量の勾玉
勾玉文化の黄金期である古墳時代には、勾玉は記紀神話で語られているように王位継承の品に選ばれ、人物埴輪に見るように、人々の胸や首、髪を飾り、遺跡からの出土品が証明しているように前方後円墳などの高塚式墳墓に副葬されました。素材も日本翡翠だけでなく、水晶・メノウ・ジャスパー(碧玉)・琥珀、などでさかんに製作されました。滑石・蝋石を使った祭祀用の子持ち勾玉も登場します。
古墳時代には約400年間に推定10万基以上の墳墓が築造されました。どれくらいの割合で、どれくらいの個数の勾玉が副葬されたのか、気になるところですが、推定した文献を見つけられません。副葬品以外の用途として、15000個以上の日本翡翠勾玉が交易のために朝鮮半島に送られたという説があります。人物埴輪の盛行は古墳時代後期のことですが、勾玉をつけている巫女や踊り子、兵士の埴輪のモデルたちは、中央や地方政府の高官たちで、勾玉は財政的に余裕のある人たちの占有物だったのでしょう。平安時代にあってもなお、人々の大半は縦穴式住居に暮らしていたので、社会の下層民には、管玉や勾玉は縁がなかったと思います。
日本翡翠原石の産地、糸魚川市を中心とした新潟・富山県境地方では、弥生時代には勾玉の製作は衰退しますが、古墳時代になると縄文時代にも増して盛んになります。日本翡翠勾玉は古墳時代を通じてほぼ限定的に新潟・富山の県境地方の玉作り工房でのみ製作されました。
出雲では弥生時代末期になってから、水晶・メノウ・ジャスパー(碧玉)の勾玉が製作されるようになります。同時に管玉・切子玉・丸玉・平玉なども作られました。出雲の玉作り遺跡からは日本翡翠の原石はひとかけらも出土していません。越のヌナカワヒメに妻訪いした出雲西部のヤチホコの勢力は、山陰・北陸産の管玉や日本翡翠原石を北部九州に運び、鉄や青銅との交易に使用していたと推測できますが、ヤチホコの勢力が滅び、オオナモチ(オオクニヌシ)の勢力が出雲を統一したあとの時代には、北陸(越)との交流は途絶えたようです。
弥生時代からのつづきで、山陰・北陸ではジャスパーや緑色凝灰岩という加工しやすい岩石を用いた管玉がさかんに製作されます。考古学では濃緑色のジャスパーと緑色凝灰岩をひとまとめにして「碧玉」とよんでいます。古墳時代初期にはこれら碧玉を素材に、威信財だった貝製腕輪をモデルにした車輪石・鍬形石・石釧(いしくしろ)が作られ、銅鏡や管玉、勾玉などとともに墳墓に副葬されました。
日本翡翠は勾玉作りに特化し、管玉はつくられていません。翡翠は穴明けが困難で管玉製作に向いていないという理由のほかに、管玉作りには濃緑色の石でなくてはならない精神世界的な思いいれがあったようです。弥生時代にレッドジャスパー(佐渡の赤玉)を用いた管玉が佐渡島で製作されたのを例外に、管玉には不透明でくすんだ緑色の石が好んでもちいられました。
[9]多種多様な天然石製品が墳墓に副葬された
世界中どの土地の文化でも、死後の世界や神々の領域は現実社会をモデルに想像・構築されます。たとえば、仏教の仏たちの半裸で豪華な衣装は大乗仏教誕生時、紀元前後のインドの王侯貴族の衣装が転用され、大日如来を頂点に置く仏たちのヒエラルキーは当時の社会階層の転写です。ユダヤ、キリスト教の唯一神には遊牧民の家父長が投影されています。神々や霊界は実在するか否かの問いはここでは重要ではなくて、それらがどのように存在しているかは、文化によって創造及び脚色されているということです。
社会の身分構成が首長・族長が頂点だった弥生時代には、近隣山奥に死者たちの村があって、死者はひっそりとそこに暮らし、時が満ちればこの世に孫や曾孫として再度誕生してきたようです。
豪族が登場して地域国家的世界になると、死後の世界も地域国家的広がりへと拡張されます。王や権力者は死後も王や権力者であらねばならず、彼らがそのように振る舞えるよう身支度を整え、死後の霊をパワーアップするのが、子孫の努めになりました。王や豪族は平民を凌駕するパワーの体現者と考えられていたので、彼らは死後も子孫を守るよう期待されました。したがって埋葬儀礼、墳墓の造営は手抜きできない重大事でした。
棺に敷いたり遺骸をまぶす辰砂(丹生)は霊魂をパワーアップするための強精剤のようなものであり、管玉・勾玉は神秘的なパワーの世界と死者を結ぶ物実(ものざね・パワーオブジェクト)であり、車輪石・鍬形石などの碧玉製品は死者の身分の証しであったことでしょう。なにかと話題が多く、いまだその目的がはっきりしない銅鏡は、辟邪の物実であるのと同時に通貨のような役割があったようでもあります。
勾玉・管玉の玉作り工房では、滑石・蝋石といったナイフでも削れるような軟らかい石を使って、祭祀用の石製模造品、子持ち勾玉などが大量に製作されました。石製模造品は祭祀のためにだけ用いられて、日常生活でアクセサリーになることはなく、一般的に墳墓にも副葬されませんでした。
継体天皇の時代以降、後期古墳時代になると、石製模造品を使用した祭祀の形態が廃れていきます。前述したように継体天皇は越前・近江に出自があります。北陸地方では石製模造品を大量に製造しながらも、それを祭祀に使用した証拠となる祭祀遺跡の出土が極端に少ないといわれています。日本海側と王朝所在地の近畿では祭祀の方法も幾らか異なり、王朝の交替によって、日本海側の文化が近畿に浸透していったり、継体朝に特有な百済との親交の影響もあって、大和王朝の宗教儀礼は脱勾玉化へとすすんでいったようです。
勾玉テーマの記事なので、視線は勾玉に固定されがちですが、古墳時代には勾玉と同じほど、管玉は呪術的価値の高い品でした。水晶・メノウでは丸玉や切り子玉ビーズも製作され、滑石・蝋石でさまざまな石製品が作られました。ガラス製の勾玉・管玉・小粒ビーズなども製作されました。これらが朝廷の管理のもとに全国に流通していたようです。
<1>管玉(くだだま)
管玉は碧玉(ジャスパーや緑色凝灰岩)製品です。長さ10-40ミリほど、直径約3-10ミリの太さ、細長い円筒形で長軸の中心に穴が開けられていて、多数を紐で連ねてネックレスやブレスレットに用いられました。単数または複数の勾玉を管玉の間に挟めば、神話でアマテラスの胸を飾った勾玉ネックレスになります。現代ではビーズのネックレスは丸玉を使うのが一般的ですが、弥生・古墳時代には管玉が主流でした。
管玉は古代中国の内モンゴル自治区あたりの紅山文化や、江南地方、浙江省の良渚文化で愛用されたものが、朝鮮半島に伝わり、弥生時代に水田稲作とともに伝来しました。
管玉については『万葉集の考古学』(森浩一編、筑摩書房、1984)に「竹珠と木綿」(瀬川芳則)という興味深い記事があります。
万葉集には竹珠(たけたま)を織りこんだ歌(379と1790)があり、「小竹を切って珠としたもの」を多数連ねてネックレスを作っていたといいます。遺跡の発掘品などで古代の使用例を見つけるのは難しいけれど、文化人類学的に類例を探すと、タイ北部の山岳民族アカ族では、「笹竹を裁断して作った管玉形の竹珠ばかりを連ねたネックレスを首にかけていた」そうです。古墳時代、庶民レベルでは竹珠ネックレスが愛用されていたかもしれません。
古代の日本列島は豊葦原中津国とよばれていたほど、湿地が多く、葦が繁茂する土地柄で、葦の若芽(あしかび)はパワーがわきたつ象徴とされていました。あしかびのパワーを竹の管玉に読んで管玉を護身符としたと思います。
新潟・富山の県境地帯・糸魚川地方へ日本翡翠原石を探しに行く機会があるのであれば、緑色凝灰岩は海岸や河原で容易に見つけられます。多くは草餅を明るくしたような色合いをしていて、水に濡れてもヌラヌラと光らず、マットな感触です。碧玉(グリーン・ジャスパー)は出雲の花仙山産と瓜二つの風合いのものがインドで産出します。グリーン・ジャスパーに赤い斑点が散ったものがブラッドストーンです。
<2>車輪石・鍬形石・石釧(いしくしろ)
車輪石・鍬形石・石釧は古墳時代の前方後円墳や服飾文化に関心がないかぎり、目にすることのない天然石製品です。ホラガイのような南海産の大きな巻き貝を輪切りにして腕輪とする風習は縄文時代にはじまり、弥生時代に受け継がれました。日本翡翠や黒曜石が交易品として遠路運ばれたのと同じように、貝輪は沖縄など南の島々から北部九州や近畿、関東地方に運ばれました。南九州の隼人という種族が貝輪の交易に従事したと考えられています。
初期古墳時代には、貝輪の形を碧玉(グリーンジャスパーと緑色凝灰岩)で模した天然石製品が高塚式墳墓に多数副葬されます。これらは副葬のための専用品で実用品ではなかったとされています。古墳時代の人々には、なにか特別な思いいれが貝輪型石製品に対してあったようです。石の貨幣の一種であるようであるし、埋葬者の縁者が香典として贈ったとも想像できます。
鍬形石は農具の鍬の形に似ていて、ゴホウラ(護寶螺)の貝輪をモデルにしています。ドーナツ部分にスポーク状の線が彫られた車輪石はオオツタノハ、石釧はイモガイをモデルにしているといいます。
その他にも、琴柱(ことじ)形石製品という碧玉製品でY字形をした不可解な石製品なども副葬されました。『記紀の考古学』(森浩一、朝日文庫、2005)には、船形埴輪に付けられた琴柱形石製品とそっくり同じの立物のイラストが掲載されています。これから想像するに琴柱形石製品は、古代の神道で神々の依りしろとなった忌杖を想起させます。
<3>子持ち勾玉
中期古墳時代に作られるようになった特異な勾玉に子持ち勾玉という大振りの勾玉があります。奈良、大阪などの近畿地方と、群馬・長野・茨城などの関東地方を中心に、おもに祭祀遺跡とよばれる古代に神祭りが行なわれた場所から出土します。墳墓に副葬されたり、人々の装飾品として用いる品ではなくて、祭り専用の供物だったと推定されています。
勾玉は4センチを越えれば大型の部類になるのに、子持ち勾玉は長さ8センチを越えるものが珍しくなく、大半は滑石・蝋石など加工しやすい軟らかい石で作られています。ずんぐりむっくりした三日月形をしていることが多く、どこかナマコ(海鼠)を連想させます。腹や背に複数の四角っぽい突起を付けたり、小さな勾玉状のものを突出させた複雑な意匠となっています。形態的に小さなものは作りにくかったのと、加工しやすい軟らかい石を選んでの製作と、装飾品ではなかったので、大振りであっても不都合ではなかったと思われます。
子持ち勾玉という名称は明治時代に付けられたもので、古墳時代にどう呼ばれていたかわかっていません。子持ち勾玉と名付けられたことで、さざれ石が巌(いわお)に育つとか、石もまた子を生む、という伝説と合わさって、百合根のまわりに小さな球根が増殖するように、勾玉が子供勾玉を生むとする説が有力になっています。あるいは古代には異なる解釈があったかもしれません。
<4>石製模造品
石製模造品は滑石・蝋石を用いて製作した祭祀用具の模造品です。おもに有孔円盤・剣型品・玉類の三者の組み合わせが主体で、それぞれが銅鏡・剣・勾玉や管玉を模したものです。出土品をみると人・船・馬・鳥などの図象もあったようです。
神々・祖霊への祈願は、王に頼みごとをするのと同じ手順でおこなわれました。まずは上座に招き、酒肴でもてなし、ときには一夜妻を供し、恭順と服従を誓って証しの供物であるフトミテグラを捧げてから、願い事を述べるという順序です。不具合があればたちまちに祟りがあることを覚悟しなくてはなりません。
真心こめて祈れば神・仏に通じるという現代的な考えは古代には通用しませんでした。アマテラスの岩屋籠りの神話で語られているように、神々の前で腹蔵のないことを示すのが肝要で、いわば全面降伏して、神のすべてを一切の疑問なく完全に受容する証しとなるよう、祭祀と軍事と政治の3つの権力をゆだねる儀式が、それらをシンボライズする勾玉・剣・銅鏡の供儀でした。これらの模造品が七夕の笹飾りのように、榊の枝に結んでフトミテグラとなし、祭りのたびごとに神々に捧げられ、神々と人間との関係性が再確認されました。供儀するという意味では、故人のあの世での裕福を保証するよう、中国で模造紙幣や紙の家、印刷された財宝を墓の前で燃やすのと同じことです。
これら石製模造品は、祭祀遺跡とよばれる場所から出土します。継体天皇以前の古墳時代には神を祭る聖域はあっても、神々が常駐する神社がない時代でした。祭祀は沖縄のウタキ(御岳)のような鎮守の森や、神の聖域である山や巨岩などカムナビ(神名備)を前にする至聖所、前方後円墳の周囲などで行なわれました。
祭祀遺跡としてつとに名高いのが、玄界灘のほぼ中央に位置して、宗像大社三宮のひとつとなっている沖の島で、朝鮮半島との往来が一番盛んだった古墳時代中期の数々の祭祀跡が発掘されています。遺跡からの採集品として石製模造品や子持ち勾玉、金製馬具、日本翡翠勾玉などがあげられ、4世紀後半から6世紀頃にかけての遺品だけでも2万1千余点を数えるといいます。
[10]政府直営玉製品専用大規模工場が出現した
古墳時代の玉文化については特記事項がふたつあります。ひとつは中期古墳時代に奈良に大規模な玉製品製作工場が作られたこと、他のひとつは、日本翡翠勾玉が交易品として大量に朝鮮半島に輸出されたことです。一説では1万5千個以上の日本翡翠勾玉が交易のために朝鮮半島に送られたといいます。国内での翡翠勾玉流通が手薄になり、出雲産の碧玉(出雲石、グリーン・ジャスパー)やメノウ、水晶などの勾玉でこれをおぎなったようにも思えます。
政府直営の大規模な玉作り専用工場は、倭の五王の勢力がつよかった時期、5世紀後半から6世紀前半にかけて、奈良盆地の南部、現在の橿原市曽我町に誕生しました。曽我遺跡として知られていて、蘇我氏が配下の忌部氏に運営させたと見られています。
出雲や北陸・紀伊などの地方からメノウ・ジャスパー・水晶・緑色凝灰岩・滑石・蝋石などの原石を運びこみ、多くの工人を集めて各種の玉製品や石製模造品を製作しました。日本翡翠原石も出土していますが量は少なく、勾玉類はあまり製作されなかった模様です。 日本翡翠勾玉は原産地の北陸、おもに糸魚川を中心とする富山・新潟の県境地方で作られ、メノウ・水晶類の勾玉はおもに出雲で作られ、それらを朝廷が一括管理していたと考えられています。
曽我遺跡に関して驚くのは出土品の量の多さです。『古代王権と玉の謎』(森浩一編、新人物往来社、1991)所収の「大和の玉作り」(関川尚功)によると、遺跡を発掘して収拾した総数は約1千百万点、玉類の未成品85万点、総重量約5トンとあります。これらを収拾するために表土を約5600トン(10トン積みトラックで560台分)採取して水洗いしたそうです。それでも発掘した場所は全体の10分の1程度とのことです。考古学には執念と努力も重要ながら、必要経費をまかなう政治力も必要なのだと感嘆してしまいます。
当時の大和王朝にとって、玉類や石製品は塩や煙草の専売並に実入りのいいビジネスだったし、これらを専売することで宗教的統一を強固なものにできました。朝廷の金庫番だった蘇我氏は、これらの産業や朝鮮半島との交易によって財力を蓄え、のちには朝廷をしのぐほどの権力を掌中にしていきます。
[11]日本翡翠勾玉は交易品として輸出された
10年ほど前、『宝石の力・幸運は形に宿る』(北出幸男、青弓社、2003)という本を書いていた時期に、上野の博物館で『韓国の名宝展』というのが開催されて、新羅の古墳から発掘された翡翠勾玉付きの王冠を見ました。
王冠は金の板を継ぎあわせて造られていて、鉢巻き状のベースの中央と両側、三方に「出」の字形に似て横棒が3本の立飾りが付けられ、いたるところに、キラキラ揺れるスパンコール風金の薄片とともに3センチ大の緑色した翡翠の勾玉が、「こんなに多数を一度に見たことはない」ほどたくさん飾られていました。
かつて西欧の学者がネアンデルタール人こそ現代人の先祖だと盲信したように、考古学や古代史研究は潜在的・無意識的に郷土愛や国家愛の影響を受けやすいところがあって、朝鮮半島出土の翡翠勾玉については、両国の考古学者が見解を統一するに至っていませんが、日本の研究者たちはこれら翡翠勾玉は、すべて国産のもので、倭の五王の時代に交易によって朝鮮半島に渡ったものだと考えています。
「皇南大塚北墳という韓国で一番大きい、長さ110メートルの新羅の古墳からは、77個の勾玉が付けられた王冠が出土している。瑞鳳塚、天馬塚、金冠塚などの古墳出土の王冠には、40個とか、50個、60個近いような数の日本翡翠製勾玉が付けられている」(門田誠一「古代韓国の玉文化」参照。『古代翡翠道の謎」から)
「朝鮮半島の南部の既発掘と未発掘の古墳に埋蔵されている硬玉製曲玉は15000ないし20000以上の数が推算されます。百済地域と伽耶地域をふくめるならもっと多数の硬玉製曲玉が算出されます」(李殷昌「韓国の玉文化」参照。『古代王権と玉の謎』から)
日本では多数の古墳が天皇や皇族の陵墓に指定されて発掘されないままですが、ひょっとしたら古墳に埋蔵されている日本翡翠勾玉の総量は、日本より韓国のほうが多いかもしれません。
当時の日本は鉄の需給を輸入に頼らざるをえませんでした。鉄の国内生産は弥生時代の終盤、または初期古墳時代に始まったとされています。供給が需要に追いつくには時間がかかりました。倭の五王たちはどうしても朝鮮半島の鉄が欲しい。松本清張説によれば、弥生時代には朝鮮半島南端にも倭人が暮らしていたので、そこに地歩を築いて軍隊を送り、新羅や百済相手に付いたり離れたりしながら鉄の交易を目指し、対価としてたくさんの日本翡翠製勾玉が輸出されていったということになります。
古墳時代の中期、国内で墳墓に副葬する翡翠勾玉の量が減っていった時代に、朝鮮半島へと大量の勾玉が運ばれる。同時に、畿内の巨大古墳に鉄製品の埋納が激増するのには、こうした事情があったと考えられています。国内で品薄となった翡翠勾玉を補うかのように、出雲では花仙山で採掘される碧玉(グリーン・ジャスパ-)やメノウ、水晶製を使った勾玉が量産されるようになり、近畿や関東地方に流通していきます。
■古墳時代勾玉特集の付録・展覧会の図録に魅入る
インターネットの古書サイト巡りを始めると、何年も前に終わった古代史関連の展覧会の図録を見つけられます。一般的な歴史書ではみられない、地域や時代を限定した出土品の写真の数々、豊富な図表を眺めていると、かつて自分が暮らした土地や訪ねた場所の記憶が蘇ってくる気分になります。ひとまず自宅の作業机近くに積んであるものを紹介します。