日本翡翠情報センター(糸魚川翡翠・ヒスイ海岸・翡翠勾玉・翡翠大珠・ひすい)

日本翡翠と勾玉、天然石の専門店《ザ・ストーンズ・バザール》が運営する日本翡翠専門のホームページです。『宮沢賢治と天然石』『癒しの宝石たち』『宝石の力』(ともに青弓社刊)の著者・北出幸男が編集・制作しています。(糸魚川翡翠・ヒスイ海岸・ヒスイ採集・翡翠勾玉)。

ANCIENT HISTORY

がぜん凄い! 大国主と奴奈川姫、恋物語の意外な結末

弥生時代になると翡翠製大珠はすっかりと姿を消し、おもに北部九州を中心に翡翠製勾玉の遺跡からの出土が目立つようになり、日本列島翡翠文明は住民が変わったかのように様変わりしていきます。勾玉を作るにあたって直方体に原石をカットして、ついで丸みを削りだしていく制作法もこの時代に確立されました。
弥生時代後期は邪馬台国の女王・卑弥呼の時代。考古学的な研究からオオクニヌシの時代でもあったことが明らかになってきていますし、ほぼ同じ時代に奈良盆地では、長大な高塚式墳墓(前方後円墳)が築造されるようになり、初期ヤマト王朝が産声をあげました。
日本翡翠勾玉を巡る歴史の探求は、邪馬台国に始まり、日本神話のアマテラスとスサノウの呪術合戦を経て、オオクニヌシの妻訪婚を眺め、朝鮮半島に輸出されていく大量の翡翠勾玉に出会うことになります。弥生・古墳時代は西洋暦の紀元0年を挟さんで前後に約1千年つづきました。

オパーライト勾玉 オパーライト製本勾玉。奈良時代以降の中断期を経て現代によみがえった勾玉は、いろいろな素材で製作されています

ニュージェード勾玉 ニュージェード製本勾玉。弥生時代以降の勾玉は施溝分割技法という製法によって、定形化されたものを量産できるようになりました

日本翡翠勾玉 古代の勾玉の使用法には、持ち主をパワーアップしたり、災いから守る守護石的意味と、権威の象徴としての意味とのふたつの種類があったことがわかっています

[1]弥生時代は水田稲作と青銅器祭祀で始まる

縄文時代につづく弥生時代のできごとは伝説と史実が混交して、神殿の御簾の向こうにあるかのようにおぼろです。突出しているのは卑弥呼ぐらいのもので、女王国というなまめかしい表現もあって、日本国家の原点を見る人も多いようです。

同じ日本翡翠製品であっても縄文時代の大珠が、富山・新潟の県境地帯で作られておもに関東や東北に運ばれていったのに対して、弥生時代の勾玉は以下に述べる時代背景のもとに、北部九州で愛玩されるようになり、甕棺墓に副葬されたことがわかっています。無理に比較したり整合させることはないのですが、記紀(『古事記』と『日本書紀』)に記された日本神話では、オオクニヌシの時代に相当します。荒神谷にたくさんの銅剣を埋納したオオクニヌシの一族は、北部九州相手の鉄や青銅、勾玉の交易で富を得たと想像したいところです。

卑弥呼は弥生時代末期に実在したと考えられている人物で、彼女に関する記事がある古代中国の歴史書『三国志』のうちの『魏誌』の「東夷伝・倭人の条」、略して『魏誌倭人伝』は、勾玉についての記載があるもっとも古い書物でもあります。

日本列島の農耕の始まりは縄文時代中期に栗が栽培され、後期・晩期には一部で焼き畑農業が営まれるようになったとする意見もありますが、決定的な飛躍は朝鮮半島や山東半島、などから移民してきた農耕民による水田稲作によります。

縄文後期以降アジアは寒冷期に向かいます。狩猟採集民にとっては存亡にかかわる打撃でした。日本列島の海岸線は後退し、土地の隆起や異常気象にともなって扇状地が増大しました。里山で栗を育て、イノシシ、シカ、ウサギなどを狩り、海岸でアサリなどの貝を採集した縄文のご先祖にとって、湿地の多い平野は暮らしにくい土地でしたが、稲作民には願ってもない新天地でした。こうして日本列島では渡来民が中心になって水田稲作を行う弥生時代が始まりました。

10年ほど前まで弥生時代の始まりは紀元前300年頃とされていましたが、現在では紀元前500年頃とみなされるようになっています。中国大陸での稲作の開始は、長江中流域が有力視されていて、時代は5千年前から1万年前、あるいは1万2千年前へと古くなっています。稲作が日本列島に伝わるまでに大陸ではおよそ7千年の歴史を経ていたことになります。

弥生遺跡の出土品から、稲作の開始と同じころ、青銅器と鉄器がほぼ同時に入ってきたことがわかっています。青銅器はもっぱら祭事に使われました。くっきりと線引きできるものではないのですが、北部九州では祭祀用銅剣・銅矛、近畿では銅鐸を重視しました。その他両地方の弥生・古墳時代の墳墓からはたくさんの銅鏡が出土します。武器、農耕具などの実用品には鉄器が重宝されました。

古墳時代の後期ごろ、およそ6世紀あたりに鉄は国内で需給を賄えるようになります。それまで朝鮮半島の鉄をいかに確保するかが日本列島の権力者たちの重要なテーマでした。卑弥呼の時代から倭の五王の時代まで、朝鮮半島と北部九州の間を、時には大船団を組んだ船がさかんに行き来しました。

弥生時代はあちこちに小さな邑ができて、水田の領有や収穫、労働者をめぐって互いに殺しあった時代です。集落のまわりに堀を巡らせたり、逆茂木を立てて防衛しました。邑同士の争いは豪族の発達をうながし、各地に豪族が登場して、日本列島は北部九州、吉備、近畿、出雲、北陸、などの文化圏にわかれていきます。

弥生時代の始まりを紀元前500年頃とすると、中国では周(BC1050年頃-BC771)が滅びた後の春秋戦国時代のなかごろに相当します。秦の始皇帝による古代中国の統一は紀元前221年。漢は西と東を合わせて紀元前206年から紀元220年までつづき、そのあとは魏・呉・蜀の三国時代になって、紀元280年の晋の建国へとつづいていきます。弥生・古墳時代を古代中国史と比較しながら眺めると、中国で王朝が変わるなど大きな事件が起きるごとに、朝鮮半島だけではなく大陸のいろいろな場所から、幾派もの移民が日本列島にやってきたのだと想像できます。

[2]弥生の日本翡翠勾玉は管玉とセットだった

一神教の文化では征服地へと自分たちの信仰を強制的に移植します。被征服民の文化を踏みにじって恥じることがありません。けれど森羅万象に精霊を見るシャーマニズムの文化はそうではなくて、移民すればまっさきに移住先の土地の神々を敬い、その土地に暮らす許可を得てきました。見えない世界からの祟(たた)りを恐れたがゆえです。

そうやって縄文文化と弥生文化は混ざりあい、縄文人が愛した勾玉を弥生人が継承することになり、朝鮮半島からもたらされたとする管玉が加わって、おもには管玉を連ねた間に勾玉を組みいれたネックレスやブレスレットなどの新たな装飾品が誕生しました。

勾玉はパワーが匂う玉。玉(たま)は魂(たま)に通じて魂の宿りとなる、だから精霊や祖霊、神々の霊が宿った勾玉は、不幸や災難を退けたり軽減する強力な護符となる。という私たち日本列島の民に固有の勾玉への思いいれは、こうして育まれていきました。

勾玉が墳墓に副葬されたのは、死者の魂が邪悪なものから守られ、活動力を高めるよう願ってのことでした。死後にも霊魂は存続すると考える文化では、子孫を守れるように死者の霊魂を賦活させることが大事で、パワーオブジェクトがもっとも重要な威信財として機能しました。財産を誇示するためだけの威信財は古代には存在しませんでした。

管玉(くだだま)だけに限っていえば、大陸には長い歴史があって、弥生時代の始まりから数えて500年ほど前の周(BC1050年頃-BC771)の遺品に含まれているし、江南の良渚文明(BC3200-BC2000)や内モンゴル自治区の紅山文明(BC5000-BC3000)の遺跡からも出土します。日本列島での管玉は翡翠が使われることはなく、おもに緑色凝灰岩を用いたものが多量に製作されるようになり、後には出雲の碧玉(グリーンジャスパー)、佐渡の赤玉(レッドジャスパー)でもさかんに製作されました。日本神話でアマテラスが付けていたとされる勾玉ネックレスやブレスレット、髪飾りはこの時代に始まった装飾品をモデルにしています。

弥生時代の勾玉については、やや専門的になりますが、『季刊考古学89号・縄文時代の玉文化(2004/1)』の「縄文勾玉」(青森県立郷土館・鈴木克彦)の記事が妥当と思います。

「縄文勾玉は、後期後半から頭部に刻みを入れるものと丸みを帯びたものを典型として、全体に複数の刻み目をもつ。後期後葉から晩期前葉の短期間にかけて盛行していて、多様性が縄文勾玉の実態である。本州と九州に類例が多いといった地理上の対極現象があり相互の比較が憚られるが、九州では縄文系勾玉のJ字形→コ字形→C字形に至る類型変遷がモデル化されている。それに対して北日本ではコ字形、C字形は存在せず、頭部に刻みを多用した「く」の字形を基本形に変遷する。」p27

「北日本では晩期大洞C2式以降に激減し、対して九州では晩期末に菜畑型(C字形)が出自して弥生勾玉に継続する。九州では東日本に見られないコ字形、十字孔勾玉など多様な類型が存在する。このような北日本に多い縄文勾玉と九州に九州に独自に展開した縄文勾玉のほかに、朝鮮半島からの影響を受けて弥生勾玉が成立する。」p27

頭部に複数の刻み目をもつ縄文勾玉は鶏などの鶏冠(とさか)に見立てて、禽獣勾玉とよぶことがあります。イルカが笑っているようにみえる丁字頭(ちょうじかしら)勾玉は、ここから変化してきたという意見がありますが、定かではありません。ともかくも、弥生時代初期に日本翡翠製品の出土は激減します。そのころ北九州の甕棺などに副葬された翡翠勾玉は、縄文晩期に伝世していた品を収集したものとの意見があります。該当する玉作り遺跡は発見されていないが、弥生時代になっても糸魚川地方で縄文風勾玉の製作がつづいていたのではないかと、考える人もいます。

朝鮮半島から管玉が伝わったことで、勾玉の制作法も変わっていきます。管玉は、原石を小割わりして形を整えるより、原石に溝を入れて打撃を加えることで原石を分割する施溝分割技法を用いて、最初に板状にし、ついで四角な柱状のものを作ってから円柱状に研磨していくと効率よく製作できます。勾玉も同じ技法で製作されるようになりました。

管玉は山陰や北陸の玉作り工房でさかんに製作されるようになり、弥生中期になると管玉の玉作り工房で、糸魚川地方から運んできた翡翠原石を使用して勾玉が作られるようになっていきました。施溝分割技法で直方体に整形した原石からの勾玉作りは定型勾玉をつくるのに適していました。

弥生中期になると北部九州で翡翠勾玉の出土が目立つようになり、やがて全国に波及していきます。こうしたことを考えると、現在の富山・新潟県境地帯で採集される翡翠原石を、山陰や北陸の玉作り工房に運んだ民がいた。この人たちはここで製作した翡翠勾玉や管玉を九州北部に運んで青銅製品と交換した、と思えてきます。自分としては彼らがオオクニヌシを信奉する出雲の民だったんだろうと想像しています。

[3]『魏誌倭人伝』に記録された日本翡翠の勾玉

このうえなく美しく清楚な巫女王(みこおう)がいる。彼女は高殿に神祭りして神がかり、神託を降ろす。神妻なので人間の男性とは結婚しない。親しく接するのは弟ひとりで、神託を受けて弟が国を治める。卑弥呼についてはそんなイメージがあります。たぶん国民的イメージと思います。

前述の『魏誌倭人伝』に倭人の国の邪馬台国を治めるのは卑弥呼という女王であると紹介されて、卑弥呼は日本史のヒロインになったけれど、「倭人伝」を書いた古代中国の官僚たちにとっても卑弥呼はアマゾネスで、邪馬台国はエルドラドだったことでしょう。時代的には弥生時代から古墳時代への移行期で、近畿では初期ヤマト王朝が起きて、前方後円墳という超巨大な高塚式墳墓が築造されるようになった頃のことです。

『魏誌倭人伝』には古文献としては始めて、緑の濃い翡翠勾玉と想定される「青大句玉二枚」という言葉が記されていて、勾玉が高価なものだったことを示しています。この時代には出雲の碧玉は勾玉に加工されていなかったし、緑色凝灰岩から勾玉が作られることがあったにしても安価だったろうし、推論として「青大勾玉」は日本翡翠製品で、長さ4-5センチあったと思われます。出雲大社の宝物殿にあるような立派な勾玉だったことでしょう。

卑弥呼の跡継ぎの少女がこれを魏の国王に贈るいきさつは、倭人伝を読みとく松本清張説を援用するとおおむね以下のようになります。

「九州北部に伊都国(福岡県前原町、三雲・遣溝遺跡)を中心として、邪馬台国などを含む(あるいは邪馬台国という名称の)連合国があり、いまの熊本県近辺の狗奴国と敵対していた。前記連合国では男の代表者をたてたがまとまりがつかなった。そこで卑弥呼なる巫女王を選出した。」

「朝鮮半島の帯方郡は魏の植民地で、ここからの使者が伊都国に常駐していた。現代社会の紛争地帯が国連軍の進駐を受け入れるように、一大率という名称の監督官も着任していた。中国関連の領事と軍のオブザーバーが伊都国にいたということだ。これに対して後の熊襲となる狗奴国は長江下流域・江南の呉と交流があったという説がある。」

「卑弥呼は日本人の精神構造のなかでアマテラスと同一視されやすく、日本列島の統治者だったと思いこまれやすいが、現代でいうなら卑弥呼の連合国はひとつの県程度の広さだった。卑弥呼は当て字でこれらの漢字に意味はない。ヒミコはヒ(霊・祖霊)に仕える巫女で、「鬼道につかえ、よく衆を惑わせる」というのは、古代中国では一般的な死者を鬼といったから、鬼をあがめる、祖霊をあがめ、祖先の声を霊聴として聞くシャーマニズム的祖霊信仰の主催者だったようだ。アマテラスが永遠に若いように卑弥呼も若くて美人な巫女王だったと想像されがちだが、『倭人伝』には彼女は老いていて、歩くのもままならず、人嫌いで他者を寄せつけなかったと、書いてある。」

「西暦238年、卑弥呼は帯方郡大守の助力を得て魏に朝貢した。狗奴国との戦争に向けて、魏から九州の正統な統治者であると認めてもらうのが大きな目的だった。」

「卑弥呼が亡くなって大きな墳墓を作り、奴婢百名を殉葬した(墓に生き埋めにした)。男王が後を継いだが国中が治まらない。みんなが勝手なことをして千人以上もが殺しあった。そこで卑弥呼の血筋の壱与(または台与)を国王に選ぶと国は平定した。壱与は13歳の少女だった。倭国に駐在していた魏の高官が帰国するに際して、壱与は20名の使者をつけて彼を送らせた。このときの御調(みつぎ・貢)の品が青大勾玉2枚と、白珠(真珠)5千孔、異文雑錦(高価な絹織物)20匹、男女生口(奴隷という説と、特殊技能人という説がある)30人だった、と「倭人伝」はつづく。」

13歳の少女ではいかに突出した霊能力があろうと国を納められない。ネパールの生き神・クマリのように彼女のしぐさを読んで神示としたのでしょうか。古い時代の諏訪大社には聖別した幼児の身振り・しぐさを読んで神示とする信仰がありました。八幡信仰にも類似の要素があったといいます。北九州は八幡信仰の土地柄でもあるので、そんなふうだったのかもしれない、などと想像します。

話は長くなってしまいますが、松本清張は『魏誌・倭人伝』について以下のように書いています。

「3世紀の後半に中国でかかれた史書『三国志』のうち、『魏誌』の記述には東方諸地域のことが出て「東夷伝」といっているが、「倭人」の条はその「東夷伝」のなかの一項目である。その資料となっているのは、当時、魏の出先機関のあった朝鮮の帯方郡(いまのソウル北方)の使者が、何回となく「倭人」(北部九州)に行って、そこの伊都国に滞在したときの報告がおもであったと思われる。その実年代は239年から248年までの9年間で、報告書は帯方郡から魏の首都である洛陽の政府におくられ、そこの文書部のようなところに保存されていたのであろう。それをギョカンという晋の史官が材料に使って 『魏略』を書いた。その『魏略』をまた『三国志』(285年の完成という)の編者の陳寿(ちんじゅ、?-297)が「東夷伝」の大半の資料としたのである。」(清張通史1、p28)

『魏誌・倭人伝』は一言一句をめぐって、重箱の隅をつつき、さらにはルーペで精査するような研究がつづけられています。公費で研究できる学者から、研究費まるごと自己負担の民間歴史家と郷土史家まで研究者を全部集めたら、通勤時の満員電車何両分になるやら計り知れません。それでも引用のそのまた引用のような資料を、どこまで信じていいのかわからないのが『魏誌・倭人伝』の尽きることのない魅力となっています。

[4]弥生古墳時代と勾玉のアウトライン

弥生・古墳時代と勾玉の物語は『古事記』『日本書紀』と考古学的出土品や遺跡の研究との二頭立て馬車を操っていくことになります。古事記の神話からは、①アマテラスとスサノウのウケヒ、②アマテラスの岩戸隠れと三種の神器の起こりを見ます。次に③翡翠の女神ヌナカワ姫とオオクニヌシの恋物語と考古学的歴史との接点をさぐります。

神話を離れて歴史時代になってからは、学問的にはヤマト王朝最初の天皇を崇神天皇とする説が有力で、卑弥呼の活躍とほぼ同時代だったと推定されています。3世紀の中頃、もしくは後半、奈良盆地に全長278メートルの巨大前方後円墳・箸墓古墳が築造されたのを機に、古墳時代が始まります。

ここでは、大和王朝3度交替説にならって第10代・崇神天皇から第14代・仲哀天皇までを初期ヤマト王朝と呼び、第15代・応神天皇から第25代・武烈天皇までをヤマト王朝、あるいは倭の五王の時代とよぶことにします。第26代・継体天皇以降を便宜上大和王朝とすると、④初期ヤマト王朝では勾玉に託された政治的な意味を探ることになります。⑤倭の五王の時代には日本翡翠勾玉は交易品としてさかんに朝鮮半島に輸出されました。子持ち勾玉が祭祀に使われた時代でもあります。大和王朝以後の時代になると、ほどなくして仏教が伝来し、中国を模倣した中央集権国家が誕生したこともあって、勾玉の衰退・滅亡期になっていきます。

歴史時間的にはおおまかに崇神天皇に始まる初期ヤマト王朝が4世紀の出来事、倭の五王は5世紀に活躍し、6世紀始めに継体天皇が即位して、6世紀の終りごろ聖徳太子が登場する、というようになります。672年には天武天皇による壬申の乱が起きて、日本列島も中世的な立憲君主国家になっていきます。そうして同天皇の命令のもと、国選の歴史書『日本書紀』と、天皇家の私家版と位置付けられる『古事記』が編まれます。

それから1300年ほど未来のこと、勾玉の意味や意義を求めて、水草や緑藻でよどんだ鉢のなかの金魚を探すように、私たちは両書を参考に過去を覗き見ているのです。

[5]『古事記』と『日本書紀』とふたつの歴史書がある不思議

勾玉にはどういう意味や価値があったのか、どのように機能していたか、など、勾玉と古代の呪術の関係は、『古事記』の神話からうかがい知ることができますが、その前に 『古事記』について触れておきたいと思います。

日本には同じ時代を扱うふたつの歴史書があって、ほぼ同時代に編集されたのに神名の標記が全然違うなど、互いが互いを無視しあっています。古代史はいたるところに謎があって、『古事記』もまたミステリアスな過程をへて世に知られるようになりました。

よく知られているように『古事記』と『日本書紀』はともに、天武天皇によって企画されたと伝えられています。前後の時代は、蘇我馬子に始まり、天智・天武・持統の三天皇、藤原不比等、と強烈な政治家たちがつづいた時代で、天武天皇が君主独裁的で中央集権的な法治国家を築く基礎固めをしました。皇位強奪に成功した壬申の乱は図らずも旧来の豪族を一掃して、官僚主義的な貴族社会を成立させる契機となりました。

政治体制や律令制度、官僚たちの服装規定、陰陽道主体の学問・呪術、葬送儀礼などすべからく中国様式をとうとんだこの天皇は、中国と同様の歴史書が欲しかったようです。歴史書の編纂には、神話時代からの歴史を一本化して天皇中心の歴史を国家公式の歴史とすること、貴族・豪族たちの氏素性を明確にする役目もありました。

『日本書紀』の編纂・製作は天武10年(681年)に始まり、ほぼ40年近い年月を経て720年に完成します。中国の歴史書を真似た国選図書なので文体も漢文でした。対する『古事記』はそれより8年前の712年に完成したことになっていますが、本分は万葉がなが多く、編纂の経過や完成年月日は序文に記されているだけで、それを証明する傍証がありません。後発の『日本書紀』は『古事記』は存在しないとでもいいたげに無視していますし、奈良時代の国選の歴史書『続日本紀』にも『古事記』撰録の記事がありません。平安時代になるまで『古事記』を引用した他書がない、など、その他いろいろな問題点をあげて、『古事記』を偽書とする説がいまもあります。

しかしながら、『古事記』は『日本書紀』より古代の伊吹豊かで読みやすく、江戸時代の国学の大家・本居宣長に絶賛されました。その流れを受けて、明治・大正・昭和とつづいた国家神道のもとでは聖書扱いされました。そのためなのか、『古事記』のほうが、現代でも『日本書紀』より人気が高いようです。

『古事記』は稗田阿礼という暗記の達人を天武天皇が見出だし、皇室氏族の系譜(帝皇日継・すめらみことのひつぎ)や神話・伝説(先代旧辞・さきつよのふること)などを、暗記させることから始まったといいます。阿礼を女性とする説もありますが、女性に舎人という役職は不可解です。

稗田阿礼は古代の語り部の系譜にあったと一部の参考書には書かれています。文字のない文化では王族・豪族の血統や歴史を暗唱する語り部なる家臣がいました。祝祭の宴席で語り部が朗々と系譜を語ることで、王たちはアイデンティティを確認でき、家柄を鼓舞できたのです。

変性意識下での暗記能力の増大という精神世界的技法に、ここでは興味を惹かれます。古代インドの神官階級バラモンの例からすれば、意識をトランス状態に変性することで、長大な聖典ヴェーダを丸ごと暗記でき、再生できたといいます。吟遊詩人もまた変性意識下での超人的記憶力を頼りにしていました。古代日本の語り部もそうだったことでしょう。

天武天皇崩御のあと、皇室は二代つづけて男性の世継ぎが夭折するという悲劇にみまわれます。身内の女性が中継ぎ役を勤め、女帝の擁立がつづきます。朝廷を制御して安泰せしめたのはひとえに藤原不比等の政治力でした。天皇が、天武から皇后の持統・持統の孫の文武・持統の娘で文武の母の元明に移り、都も藤原京から平城京に遷都して2年後の712年に『古事記』は完成しました。いろいろな説がありますが、稗田阿礼が製作途上にしておいたものが再発見され、太安万侶(おおのやすまろ)がまとめて序を付けたとする説が納得しやすいと思います。