日本翡翠情報センター(糸魚川翡翠・ヒスイ海岸・翡翠勾玉・翡翠大珠・ひすい)

日本翡翠と勾玉、天然石の専門店《ザ・ストーンズ・バザール》が運営する日本翡翠専門のホームページです。『宮沢賢治と天然石』『癒しの宝石たち』『宝石の力』(ともに青弓社刊)の著者・北出幸男が編集・制作しています。(糸魚川翡翠・ヒスイ海岸・ヒスイ採集・翡翠勾玉)。

ANCIENT HISTORY

   三種の神器は宗教と政治・軍事の3権力を象徴した

丁字頭勾玉 左が丁字頭勾玉2点、右が濃緑色のマウシッシ(コスモクロア)勾玉2点。丁字頭勾玉が何をイメージして作られたのか、具体的なことは何もわかっていません

日本翡翠黒色勾玉 現代では黒色系日本翡翠が大人気となっていますが、古代の人たちは翡翠に黒色系統のものがあることを知らなかったようです

立て髪つき勾玉 立て髪のついたユニークな形状の勾玉です。古代には定形勾玉以外に獣形や丁字頭など、いろいろな形の勾玉が作られました

日本翡翠勾玉 三種の神器に相当する日本翡翠勾玉は古代の豪族それぞれの家宝とされ、地域ごとの宗教的司祭者の証しとされていたようです

[14]三種神器の実物を見た者はいない

三種の神器に先行する三種の宝は当時の宗教的必需品で、各地の豪族のそれぞれが持っていたようです。日本神話ではこれが高天原(たかまがはら)に上げられて、天の岩戸に隠れたアマテラスに捧げられます。再度地上に持ち帰られて天皇の皇位継承の品になっていきました。三種の神器は代々の天皇へと継がれていくものでしたが、意図としては神話伝説と同様、天皇の皇位継承にあたって、重臣たちが服従を誓い、その証しとして天皇に捧げるものでした。

王位継承の品は古代中国では国璽(こくじ)とか玉璽(ぎょくじ)といい、印章が用いられました。王たちは腹心や身内を地方に封建するとき、身分証として印章を与えました。同じように「天」が認めた王位の証しが国璽でした。

「天」が皇帝の血筋・家系を選んだ古代中国と違って、大和王朝では天皇は天の最高神直系の子孫だったので、神器の意味や内容は国璽と似てはいるが同じではありません。三種神器は「天」が選んだ証明というよりも、天皇の権力の象徴として機能しました。勾玉は民を統治する権利を、鏡は天を祭る権利を、剣は軍事権をそれぞれ象徴した。この3つを家臣から委託されることで天皇は政治・宗教・軍事の統率者・支配者となりました。

具体的に三種神器は何であるかを眺めるのはすこぶる興味深いのですが、現実問題として、いま、それがどうなっているのか、天皇も含めて、現存する人間のだれ一人として本当のところを知らないというのが、もっともミステリアスです。

日本神話での三種神器は、ホノニニギが天孫族の代表、天皇の始祖として地上世界に降臨するさいに、アマテラスが与えた3つの宝に端を発します。ホノニニギを送りだすに当たって、アマテラスは「この鏡を私の魂と思って祭るように」と伝えますが、勾玉と剣については何も言っていません。

三種神器のひとつ「八咫鏡(やたのかがみ)」は伊勢神宮にあってアマテラスのご神体とされています。「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」は名古屋市の熱田神宮にあるとされています。「神璽の玉・八尺瓊勾玉」だけが天皇のおそば近く、皇居にあるといいます。それは皇室の金庫などにしまわれていて、天皇はときおりそれを観賞されているのかと思ったらとんでもない。天皇すらもが触れることを許されないほど厳重にしまわれ、何人も収納箱の埃を払うことすら認められず、すでに何百年もの間、そこに何がしまわれているのか知る者がいないそうです。

[15]アマテラスの誕生にも大きな謎がある

八咫(やた)の鏡の「咫(し)」は古代中国、周の時代の長さの単位で約18センチ。ここでも八咫は実際の寸法ではなく、八尺瓊勾玉・十握剣(とつかのつるぎ)と同じで、立派なとか、大きいという修辞。八咫鏡は40センチくらいの大きな鏡と推測する人もいます。『神々の乱心』という小説のなかで松本清張は、これを内行花文鏡という漢代の鏡ではないかと推測しています。

勾玉についての記事を求めて日本の古代史の森にわけいると、鏡を御神体とするアマテラスそのものが、生い立ちのはっきりしない謎に包まれているのに出会って困惑します。歴史的にはアマテラス信仰が広まったのは第26代・継体天皇(6世紀前半)あたりからで、伊勢神宮に皇祖として祭られるようになったのは第40代・天武天皇(7世紀後半、686年没)の時代になってからといいます。男性神だったのが女性神に変わったのは、記紀が編まれた時代に、まさに国の母のようだった第41代・持統天皇が女性天皇だったからだとする意見があります。

こうした歴史とは別に伝説では、伊勢神宮でのアマテラス祭祀は第11代・垂仁天皇からとされています。垂仁天皇よりひとつ前の天皇・第10代・崇神天皇の時代は苦難に満ちていました。『日本書紀』には、崇拝神天皇が治める世は、疫病が多く、民の半分が死亡するほどだった。農民たちはこぞって農業を放棄した。と書かれています。天皇は天照大神と倭大国魂神(ヤマトノオオクニタマ)の2神を宮殿内に祭っていたが、これは恐れおおいことだと考えて、天照大神を豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)に託して大和の笠縫邑(かさぬいむら)に祭りました。倭大国魂神は渟名城入姫(ヌナキイリヒメ)に預けて祭ることにしたのですが、渟名城入姫には大役すぎて、髪が落ち、やせ細ってしまいました。

それでも世の中は鎮まりません。神託を乞うと、大物主神が降りて、自分の祖先の大田田根子(オオタタネコ)という者を捜して、自分を祭らせるなら災難はさるだろう、と告げた。その通りにすることで大物主神の祟(たた)りは晴れたといいます。

崇神天皇一族は飛鳥に王朝を立てたが、征服地の土地神を手厚くお祭りしなかったので祟りを受けた、と解釈することもできます。

崇神天皇の第三皇子が垂仁天皇で、この天皇の時代は狭穂姫(さほひめ)・狭穂彦の謀反や新羅の皇子・ツヌガラシトの来日、成人してもものをいわない皇子の誕生など、なにかと忙しく過ぎていきます。大和の笠縫邑に祭られていた天照大神は、倭姫(ヤマトヒメ)に託され、御神体の八咫鏡といっしょに新天地を求めて旅たち、近江、美濃を巡って伊勢に祭られることになりました。伊勢の斎王の制度はここに始まるとされています。

[16]草薙剣はエクスカリバーをしのぐほど凄い

三種神器の剣についても見ておくことにしましょう。草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けられたこの剣にまつわる物語は、西欧神話のエクスカリバーをしのぐほどにドラマチックです。

天空の島国・高天原を追放されたスサノウは、葦原中国の出雲の国、肥河の上流の鳥髪という所に降りて、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治します。大蛇の尾から立派な剣が発見される。スサノウはこの剣をアマテラスに献上する。剣のパワーはすざましく霊気が雲となってゆらぎたつほどだったので、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)と名付けられた。アマテラスは天孫降臨に際して三種宝(みくさのたから)のひとつとして、これをホノニニギに与えます。

つぎにこの剣はヤマトタケルにちなむ物語に登場します。ヤマトタケルは初期大和王朝の英雄で、歴史的には実在しなかったといわれています。『古事記』では倭建命、『日本書紀』では日本武尊と標記されます。

第12代・景行天皇の皇子で、『古事記』では、父はわが子の超人ぶりを恐れていたと語られる。彼は熊襲を征服して九州から帰朝するや、休む暇もなく、東北の蝦夷退治を命じられる。その道すがら、伊勢神宮で斎宮を勤めていた叔母の倭姫を訪ねる。武運長久を願って叔母から姪に与えられたのがこの剣で、ヤマトタケルが敵のだまし討ちにあい、野火に焼き殺されようとした折りに、この剣で草をなぎはらい、向かい火を起こして難を逃れた故事をもって「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」とよばれるようになりました。

ヤマトタケルは蝦夷征服の帰路、伊吹山の神を侮って祟(たた)られ、重病を患って他界します。尾張の地に残された草薙剣は熱田神宮に祭られることになったといいます。

鎌倉時代の先駆け、源平合戦の壇ノ浦の戦いで、草薙剣は幼帝安徳天皇とともに海底に沈んだと伝説にあります。このとき、八尺瓊勾玉を入れた神璽(しんじ)は波に浮いて回収されたが、剣はいかに捜せど見つけだすことはできませんでした。神宝紛失の大事件ですが、そのときの剣は、天皇とともにあった、いわば草薙剣の代用品で、熱田神宮の本体ではなかったと説明されています。三種神器はどこもかしこも謎だらけです。

草薙剣は時代劇の日本刀より古い時代の諸刃の大刀で、柄頭(つかがしら)が球形をなした頭椎大刀(かぶつちのたち)のようです。江戸時代に熱田神宮の大宮司がひそかにご神剣を開き見たという記録があって、「白銅製の狭鋒銅剣で、鎬(しのぎ)のところが丸くふくらみ、魚の背骨のように節だった、あまり類例のない特異な形状をしている」( 『天皇の祭祀』村上重良、岩波新書、1977)といいます。

あれこれいわれているだけで、実物を誰も確認したことがない、見たことも聞いたこともないものが、この世界に確実に「存在」しているというのはとても不思議です。

[17]八尺瓊勾玉は歴代天皇も触れたことがない

鏡は三重県伊勢に、剣は愛知県名古屋市にと、飛鳥から遠く離れた土地に祭られたのは、天武天皇以降の東国政策のせいだったといわれています。

『日本書紀』では壬申の乱は、天武天皇保身のためのやむをえない反乱だったように語られていますが、見方を変えれば、中央政府に対する東国の豪族たちのクーデターでした。天武天皇は彼らを重視する証しとして、大和にある朝廷から見て、東国の入り口にあたる伊勢に、三種神器のひとつである鏡をご神体として皇祖アマテラスを祭り、当時の東国の中心・尾張の熱田神宮のご神体の剣を伝説の「天叢雲剣」と同一視したというのが、三種神器がばらばらに保管されている理由となっています。

それでも八尺瓊勾玉だけは神璽として、天皇のおそば近くに置いておかなければならなかったのには、それ相応の理由があったことでしょう。

南北朝時代、後醍醐天皇はご神宝の勾玉と剣をもって吉野に移ります。彼が我こそは正統の天皇であり、天皇中心の政治を営めると主張できたのも、八尺瓊勾玉があったからです。

「美しい玉(たま)には力強い魂が宿る」という古代の感性から考えるなら、八尺瓊勾玉と名づけられた特別な勾玉には、天皇家の祖霊が宿っていて、この天皇霊ともいえるものを生身の天皇が身に付ける、憑霊させることで、天・人・地の三界を治める超人間的な存在へとメタモルフォーゼスできたということではないでしょうか。

天皇という存在は並みの人間がなれるものではない。天皇霊を憑依させることで、はじめて本物の天皇になれる。そういうふうに考えられてきて、天皇霊のバッテリーのようなものとして、八尺瓊勾玉を天皇は身辺から離すわけにはいなかなったと思われます。

『天皇の祭祀』(村上重良、岩波新書、1977)によれば、八尺瓊勾玉は平安時代以降、実物を手にしたり、眺めた者はひとりとしていないといいます。古墳時代の出土品から想像するなら、八尺瓊勾玉は大きくても4-5センチほど、出雲大社のご神宝に相当するほどに緑の濃い日本翡翠の勾玉のようです。